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教会と救い

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。マタイ16:18
 カトリックの法王が決まりました。聖マラキの予言とは違ってフランチェスコ1世でした。もともとマラキは聖霊による預言者かどうかはわかりません。だから私は予言者と言って来ました。預言とは100%神からのものであり、予言は人間によるものだからです。しかし、聖マラキの予言は80%は当たっていたので、今回は期待しました。しかし、もともとカトリックは自分たちの終焉を予言するこの予言を嫌って長い間封印していたくらいですから、今回はあえて避けたのでしょう。イタリヤ出身の枢機卿も居たので、もしやと思ったのですが。もちろんまだどうなるかわかりません。
 上の言葉から、カトリックはカトリック教会に行かなければ救われないとします。ペテロに主イエスが与えられた鍵がカトリックにだけあるというのです。ところがこの箇所で、ペテロはギリシャ語でペトロス、小石を表します。しかし、「この岩」と言うのはペトラ、岩山を表しています。イエス様が言われたのは、ペテロの信仰告白なのであって、ペテロと言う個人ではないというのがプロテスタントの考えです。
 聖書は教会に行かなくても救われる実例を何度も書いています。例えばキリストが十字架に掛かったとき、両脇に同じく十字架に掛かっていた罪人のうち一人はキリストをののしったが一人はそれをたしなめて言いました。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:39〜43
 この強盗は洗礼も受けず、教会の典礼にも参加せず、断食や祈祷もせずに、パラダイスに直行しています。パラダイスとは天国の控え室のようなところと考えられています。イスラエルでは日没をもって一日を終わりとしますから彼は二時間ぐらいでパラダイスに行ったことになります。
 ではなぜクリスチャンは教会に行くのでしょうか。

  1. そこで専門的な教育を受けた指導者が福音(キリストの教え)を教えているから。
  2. 教会はキリストの花嫁、クリスチャンはその肢体(細胞)であるから、所属することによって命を得、成長できる。
  3. 信徒の互いの愛によってキリストを体感し、他者に分け与えられる。
 さらに、よく質問されることに旧約聖書の神と新約聖書の神は同じ神なのかということがあります、旧約聖書の神は厳しく怖い、新約聖書のキリストは優しく愛に満ちていると。しかし、実は旧約聖書でも神の愛は沢山示されているのです。ところがイスラエルがことごとく反抗するので勢い厳しくなってしまったのです。厳しいと言うことは逆に愛があると言うことです。イスラエルが気に入らなければ捨ててしまえばよかったのです。そうすれば多くの民族のように歴史の中に消えていってしまったでしょう。それがまるで悪女の深情けのように、いつまでも、いつまでもこだわり続けています。旧約し聖書の神の厳しさは神のこだわりの表現なのです。それほど愛しておられたのです。
 旧約聖書と新約聖書に共通する救いの基本形があります。それは羊の血によって罪が清められると言う原則です。旧訳聖書の場合それは年毎に捧げられる本物の羊の血でした。新約聖書の場合それは“神の子羊”と呼ばれるイエスキリストの血です。この血を自分の上に置かなければ神に近づくことは出来ないのです。アダムの子カインとアベルの物語でカインの捧げものが受け入れられなかったのは羊の血によって清められると言う原則を満たしていなかったからです。
 不思議なことにこの思想を一文字で表す漢字があります。 という文字です。義は羊の下に我と書きます。羊の犠牲の下に我を置くと義となるのです。神の前に出るにはこの義を着なければならないのです。着た者は義人、正しい人とされます。どう考えてもこの漢字を作ったのはユダヤ人でしょう。シルクロードを通って中国に来る間にこの聖書の思想を完全に表す文字が作られたのでしょう。それ以外考えられません。