ホームページ・メッセージ130303        小 石  泉

Dreams come true

主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
詩篇126:1〜6
 あなたには夢がありますか? 何か成し遂げたい夢。夢のある人は老いません。生き生きと命を重ねます。たとえ今は重圧と苦悩に押しつぶされそうになっていても夢があるなら希望があります。 上の御言葉は、バビロンに捕囚になったユダの人々がペルシャの王によって帰還を許された時のことです。それについてはエズラ記、ネヘミヤ記に詳しくありますが、その喜びを歌った歌がこの詩篇です。これは珍しくダビデの詩篇ではありません。
 その時、彼らは「夢を見ている者のようだった」と歌われています。そして「口は笑いで満たされ」、「舌は喜びの叫びで満たされた」とあります。こんな喜びを経験されたことがありますか? 夢が実現する時、それを経験できます。私たちは最初の会堂を与えられたときに経験しました。木更津市のポンプ小屋をもらって船橋に向かう車の中で笑いが口からあふれ出て止まりませんでした。
 しかし、ユダの人々は、これに先立って敗戦と捕囚に会いました。選民を自負する誇り高い彼らが、異国での屈辱的な扱いに悔し涙にくれて歌っています。
バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。
主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」と言ったエドムの子らを思い出してください。
バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。 おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。137:1〜:9
 最後のところは何とも激しい言葉ですが、それほど彼らの苦悩が大きかったのでしょう。
 神様に逆らい続けたイスラエル・ユダヤに対する神様の戒めも半端じゃあないなと思います。神様は中途半端なことはなさいません。私たちを矯正しご自身の望まれる姿になるまで徹底的に取り扱われます。そうでないなら私たちは愛されて居ないのです。
 私はいつも思うのですが、イスラエル・ユダヤ人をそんなに取り扱わないで、面倒だと捨ててしまわれたら良かっただろうに。しかし、そうしたら、とっくのとうにイスラエル・ユダヤ人は歴史の彼方に消えていたでしょう。
 あなたに起こってくる苦しみや痛みもいつか、冒頭のような喜びと賛美に変わる時が来ます。そのためには希望を持ち続けることです。夢を持ちましょう。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。Tコリント13:13
 夢は現実を飛び越えます。たとえ捕囚の中にあっても、エルサレムを夢見るとき、現実の厳しさと辛さに打ち勝つ力が沸いてきます。信仰に基づく夢は希望を与えます。夢を持ちましょう。あきらめないで、神様に訴えながら。夢を実現して頂きましょう。