ホームページ・メッセージ130217        小 石  泉

慰めよ 慰めよ わたしの民を

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」イザヤ40:1〜5
 イザヤ書は66章から出来ています。39章はどちらかというと厳しい裁きのメッセージ、40章からの27章は優しい慰めのメッセージといわれています。あまりにも違うので第一イザヤ、第二イザヤなどと言われたこともありました。まるで聖書の旧約が39巻、新約が27巻であるように見えるところから小さな聖書とも言われます。もっとも章節は後から人間が便宜上つけたものですからそういう意図があったのかもしれません。
 しかし、旧約聖書に当たる35章にも圧倒的な慰めの言葉もあります。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。35:1〜10
 イスラエルに春行くと、野に咲き乱れる花々に圧倒されます。日本の房総半島の花畑はいかにも畑で人間の作物ですが、イスラエル(恐らく地中海沿岸の地域は同じなのでしょうが)の野の花は自然でさまざまの花々が咲き乱れているので本当に美しいのです。今世界は真冬のような状態です。どこにも平安はなく人々は不安な毎日を迎えています。
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。ダニエル9:25(口語訳)
 今、キリスト教会では主の再臨がすぐにでもあるように騒ぐ人々がいますが、まだ時は満ちていないと私は思います。まだ起こらなければならないことが沢山残されているのです。それまでに患難の時代が来ると預言されています。
終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。第二テモテ3:1
 しかし、リチャード・ウオンブランド師の「マルクスとサタン」を訳したものとして確信を持って言いますがすでに世界はいくつもの患難時代を迎えてきたのです。共産主義革命の時代のロシア、ルーマニア、東ドイツ、ハンガリー、などの東欧諸国、中国、北朝鮮、カンボジアなどの経験した患難は、それを患難といわないで何を患難というのかともいます。私の知る限り今度患難時代を迎えるのはアメリカです。
 しかし、同時に世界的に福音が大発展するでしょう。これまでに経験したことない規模と内容で大きな前進があるでしょう。それは正に荒れ地に花が咲き、砂漠に水が流れるようになることでしょう。事実、今アフリカやアジアではそのことが起こり始めています。
 大きなことではなくあなた自身、個人的なレベルでこれはいつでも起こりうることなのです。あなたにはいつでも主の慰めが用意されています。
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」
 そして、あなたの心がいつも、
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
でありますように。これは単なる美しい言葉だけの慰めではなく、本当にひとりひとりに実現すべきことなのです。