このメッセージは私たちの教会の建設の土台となった御言葉に基づいています。そのため、これまでにも何度もお話してきたので、古くからの人は耳にたこが出来る恐れがありますが、最近、知らない人も増えてきたので、もう一度お話しする必要があると思います。
翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」マルコ11:12〜25
この箇所を若いときに読んだ時、非常な違和感を覚えました。イエス様はご生涯の最後をエルサレムで過ごすためにベタニヤから歩いておられました。そして空腹を覚えられたのでいちじくの木に近づかれて実を捜しました。しかし、実がなかったのでその木を呪われたのです。すると翌日その木は枯れてしまいました。
ところがここでマルコは、その時は「いちじくのなる季節ではなかった」と書き記しています。いちじくは時々、季節でなくとも干からびた実をつけている事があります。そんなのを取りにいかれたのでしょうか。それにしてもいちじくの季節に実をならせていないならこの木は駄目な木ですが、季節ではないのですから、呪って枯らしてしまうなんて理不尽ではないでしょうか。不思議だなあと思いました。なぜイエス様はそんな怒りに任せた面当てのようなことをしたのでしょうか。
ここでイエス様は信仰について語られました。そしてこの前後で宮の前で商売をしている屋台をひっくり返して追い出しました。ここに信仰とユダヤの現状への強いメッセージがあります。イエス様はこのいちじくの木を通して視覚教育をされたのだと思いました。季節に実をならせることは当たり前です。信仰も何もいりません。しかし、季節でなくとも実を実らせるのが信仰なのです。無茶苦茶な聖書解釈かもしれませんが、私にはそう思われたのです。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。ヘブル11:1(口語訳)
今、見ていることなら信仰はいりません。そこにあることを信じる必要はありません。1+1=2なら信仰はいらないです。信仰の世界では1+1は2にも3にもなるのです。聖書の中ではこのような話が山のようにあります。サラは90歳でイサクを生みました。ラケル、ハンナは共にうまづ女でしたが子を授かりました。マリヤは処女なのに御子を生みました。モーセは当時の超大国エジプトと戦って勝利し300万人を40年間、畑も牧草地も無い荒野で養いました。その他、イスラエルは勝つはずの無い戦いで勝利しました。
私はこの信仰に立って、会堂も会衆もサポートも無い状態から伝道を初め、今の会堂とすばらしい会衆を与えられました。誇っているのではありません。信仰とは無から始まるのだと言うことを示したいのです。可能性の無いところから可能性が始まり、駄目なところから良いものが生まれ、無理なところから大丈夫が育ちます。主は言われます。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ヨハネ11:40
もう駄目だ! OK、そこから主に任せなさい。それが信仰です。季節でなくともいちじくを結ぶのが信仰なのです。