ホームページ・メッセージ130113        小 石  泉

DESTINATION

 先日、見るとも無く見ていたテレビで有吉某という芸人とマツコ・デラックスとか言う変な男の会話がおもしろかった。有吉が「人は死んだら無くなる、なんにも無い」と言うとマツコ某が「良いのかなあ、そんなに断言して、本当に無くなるの、何かあるんじゃあない」と言った。へえ、こんな変な格好をしている男でも意外にまともな考えを持っているんだなと思った。この場合マツコの方が正しいのです。誰も無いとは断言できないはずです。見てきた人はいませんから。
 ずいぶん前に最高裁判所の判事が書いた本の題名が「人は死んだら塵になる」でした。あるお葬式でお坊さんが言った言葉は「これでお父さんとは永遠のお別れです」でした。
 数年前、しばらく千葉県がんセンターの小児病棟に出入りしたことがあります。少年少女が死と直面して恐怖の時間を待っています。若い体はたちまちがんを成長させ、あっという間に死んでいきます。そんな一人の子のお母さんが私に電話をしてきていいました、「死んで無くなってしまうなんていやですね、自分と言う存在が無くなってしまうなんて堪えられません」。
 有名な歌舞伎役者が、ロックシンガーが、スポーツ選手が人々の前から消えていきます。「永遠の別れ」、「存在の損失」、永遠の命をもたないということはなんと寂しく空しいことでしょう。それが堪えられないせいか輪廻転生という思想が生まれました。人が何かに生まれ変わる。最近でも「千の風になって」とか「葉っぱのジョニー」とか少しでも命の継承があることを求めていることを表しています。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。ヨハネ5:24
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。ヨハネ17:3
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ8:23
 聖書の中には永遠のいのちのことが沢山語られています。これは神の国で神と共に永遠に生きることをあらわしています。では、そうでない場合、どんな永遠が待っているのでしょうか。神の国に入るにはキリストの血によって清められなければなりません。
 聖書にはかなり悲惨な未来しか書かれていません。
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。ヘブル10:26〜27
 ここで気をつけたいのはこのような人々はかなり積極的に神への反逆をした人々です。また次のケースも平凡な一般人のこととは思われません。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。黙示録21:8
 私はサタン礼拝をしていた人を知っています。そしてサタン礼拝のやり方や彼らの生活、思想を知っています。それは驚くべきものです。実に積極的な悪の世界です。それに比べると一般の人々の悪の度合いはそれほどひどいものではありません。こういう人々はどうなるのでしょうか。聖書をいくら読んでもはっきりとは書かれていません。ただ、キリストの血による罪の清めを受けていない場合は、神の国で生きることは出来ません。そこは罪の無い世界だからです。
 私は思います。人間が永遠の時間に分類された時、みんな神の扱いに納得するでしょう。誰ひとり、これは不当だとか間違っているとは言わないでしょう。むしろ感謝するかもしれません。善人は善人なりに。悪人は悪人なりに・・・悪人は納得しないかもしれませんが。
 前に教会に電話がかかって来ました。年配の男性で「神は、クリスチャン以外はみんな地獄に落とすのですか」と言います。私が「神様はあなたが納得いかないようなことはなさいませんよ」というと「判りました」と切られました。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、ヘブル9:27
 裁きとは正当な評価と言うことで、必ず悪いこととは限りません。ただ絶対に確実な道は、裁かれない道です。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:17〜18