ホームページ・メッセージ121216 小 石 泉
マリヤの従順
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。ルカ1:38
この言葉によって、マリヤは一生を神の器として生きることになりました。それは恐ろしいほど過酷な道でした。一生をふしだらな不貞の女と言われることを意味していたのです。イエス様に対して次のような言葉が投げかけられています。
この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。マルコ6:3
ここで「マリヤの子」と呼んでいるのは、非常に侮辱した言い方なのです。通常は父親の名で呼ぶものです。ですから本来は「ヨセフの子」と言わなければなりません。「マリヤの子」という言い方は、父親の判らない子、不義密通の子という意味です。マリヤはこのような宿命を自ら選んだのです。
敬虔で素直な乙女マリヤに何という過酷な運命が定められたことでしょう。絶対、理解されない、どんな弁明も役に立たない立場なのです。しかし、神への協力者としてマリヤは無くてはならない存在でした。「とんでもないお断りです」と言うことも出来たでしょう。
こんな不条理な神様の要求。それに従ったマリヤ。預言者たちもそうですが、神の器のこの世で受ける報いは残酷なものです。ここに神に従うものの従順の模範があります。私たちは、もっともっと小さな試みでさえ、神様に不平を言い、自分の境遇を嘆くのではないでしょうか。
40年近く牧師をやってきて思うことは、クリスチャン信仰とは従順への学びだということです。これは危険な考えだと思います。神という絶対的権力を背景に持つと、どんな専制君主にも勝る権力者となることも出来ます。そんなカルト的な教会のうわさもしばしば耳にします。ですから指導者というものはよくよく優れた器でなければなりません。そうでない場合は、信徒はどうしたらいいのでしょうか。三つの選択枝があると思います。
- 決然とそこを去る。
- 自発的な従順に徹する。
- 指導者とよく話し合う。
去るのは簡単ですが、そして、その気持ちは判るのですが、その後、神の祝福や信仰の輝きを保つ例をあまり見ません。“従う”ということは美しいものなのですが、無気力や自己喪失と思いがちです。マリヤのように自発的な従順を取るならば祝福は大きいでしょう。恐れないで指導者と徹底的に話し合うことは幸いです。もし話し合いに応じない指導者ならばそれこそ問題です。
そういう私は非常に不従順な人間でした。生意気で誰にも従うことは出来ませんでした。神学校の3年間、反抗ばかりしていました。しかし、3年目の終わりごろ、舎監の先生に呼ばれました。「君はなぜそんなに反抗的なのか」と聞かれて「形にはまってしまいたくないのです」と答えました。すると「学校を出てからいくらでも自由に出来るじゃあないか、ここにいるときは学校に従いなさい」と言われました。これでハット眼が覚めました。そうか、ここに居る以上ここの規則に従うべきだ。それまで、特にその先生の試験はいい加減ででたらめに答えていたのですが、それからは教えられたとおりに従順に答案を書きました。すると初めて95点をもらいました。それはその先生が、それまでに出した最高の点数でした。ああ、もっと早く気がついていれば、もっと有意義な学生生活を送ることが出来たのに・・・・。
マリヤだけでなくヨセフも従順な人でした。婚約している若者はどれほど、うれしく、愛に満たされていたことでしょう。しかし、その相手が妊娠した! 驚愕、怒り、失望、悲しみ。いく晩も眠られぬ夜を過ごしたことでしょう。しかし、優しかったので、何とかマリヤを傷つけたくない、石打の刑に合わせたくないと思っていたのです。そして天使の来訪。ヨセフはマリヤを迎えました。「なんて情けない奴だ、あんなふしだらな女をめとるなんて」。彼も一生の間、そういう評判にさらされなければなりませんでした。しかし、彼は決然と従順の道を選びました。
神に従う道は、平安で全てが上手くいくものではありません。むしろ険しい茨の道で、血だらけ、汗まみれの道です。神に愛されているほどそういうものです。旧約の預言者を見てください、誰一人、安らかで都合のいい道を歩いていません。
イエス様でさえ従順を学ばれたのです。
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。ヘブル5:8〜10
従順というと私たちは強制された奴隷的なものを考えがちです。いわば隷従です。しかし、従順には自発的、肯定的、積極的なものもあります。キリストの従順もマリヤの従順も、「選び取った従順」です。神を愛するが故の自発的、積極的な従順です。
50年ほどこの信仰を持ってきて、神様が私たちに求めておられるのは、この「選びとる従順」だということを強く感じます。これが現代の日本人には最も欠けている資質の一つでしょう。キリスト教とは初めから自発的なもの、その気になればいつでも捨てられるものです。ユダヤ教やイスラム教のように生まれながらに逃れられないものではありません。自ら選び取るものだと判っているなら何事も平安の内に迎えられるでしょう。
その際、神の選び、主の次のみ言葉が問題に感じられるでしょうか。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。ヨハネ15:16
このみ言葉は神の愛の究極の表現であって、いやなものを無理矢理選ぶという意味ではありません。いやならお断りすればいいのです。
こんなことを言っていると、私は、結局、言葉巧みに「隷従をオブラートに包んでいる」と思われないかと心配になります。クリスチャンは神の選ばれた聖職者の覆いの中にあるとき祝福と平安があるのです。もっとも聖職者という言葉すら不確かなものかもしれません。多くの欠陥がある普通の人間がなっているのですから。しかし、あなたが、私は自分でこの人と教会に従っていこうと決めるなら“その期間”は、その人はあなたの祝福の覆いとなるでしょう。
自発的な従順は皆さんの先輩の生き方に現れています。そこには祝福と平安があるではありませんか。