ホームページ・メッセージ121104        小 石  泉

言  葉

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:1〜1:5
 この頃、若い人の言葉に戸惑っています。よく判らないのです。形容詞は「い」という語尾を言いません。「早」「寒」「旨」「近」などで、後ろに感嘆符(!)を付けたくなるような言い方です。また言葉をはしょるので何を言っているのか聞き取れません。
 特に祈りの最後に「イエス・キリストのお名前によって」と言っているのでしょうが、「イエ・・・お名・・・」ぐらいしか言っていないのではないかと思います。言葉は時代とともに変わるものですからある程度は仕方が無いのですが、果たしてコミュニケーションとして成り立つのかと思います。
 言葉は人間社会の成立のために無くてはならないものです。初め人間の言語は一つだったと聖書は言います。
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。創世記11:1
しかし、人間が神様をないがしろにして、塔を作り反逆するので(塔の上で人間の犠牲を捧げサタン礼拝をするため)神様はそれを阻止するために言語を乱しました。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」11:6〜7
 人間の暴走を防ぐために、地殻変動、噴火、地震、台風などのハードではなく、言語というソフトを用いられたというのも面白いですね。こうして言葉を乱されたために乱すという言葉「バベル」がその塔の名になりました。今、人間はコンピューターによって一つの言語に戻ろうとしているように思えます。ちなみに今、全ての言語を翻訳するコンピューターが開発されていますが、そのプロジェクトの名は“バベル”です。
 冒頭の御言葉は実に深遠な内容を含んでいます。神の言葉には“ペルソナ”(個性、人格)があって、命があり、光であるのです。この「言葉」と言う言葉はギリシャ語の「ロゴス」という言葉です。宇宙万物の源、神の現れという意味です。「神の言葉」は人として顕れ賜いました。この「神の言葉」は人間に命を与え、光りとなり、力を与えます。
 聖書の中で父なる神の言葉と、子なる神の言葉がはっきり聞き分けられるのは新約聖書でイエス様の洗礼の時と変貌の山の時です。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」マタイ3:17
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。マタイ17:5
 旧約聖書の場合、三位一体の神は一人として行動されているように思います。ですから天地創造にしても「光あれ」と言われたのは父なる神なのか子なる神なのかはっきり分かりません。父なる神は寡黙な方です。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。
神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。詩篇19:1〜4
 ですから御子の洗礼の時と、変貌の山の時は特別な事なのです。御子は神御自身が保障された方です。
 言葉は力です。あなたが建設的なポジティブな言葉を語り続けるなら、物事はその通りになり、否定的なネガティブな言葉を語り続けるならその通りになるでしょう。特に子育ての場合それは顕著に現れます。
 イザヤは自分の罪深いことをくちびるが汚れていると表現しています。
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。イザヤ6:1〜5
 人は口の言葉(告白)によって正しいとされます。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。ローマ10:9〜10
 言葉はこんなにも重要なものなのです。言葉は永遠の命にまで関わるのです。
 いつもNHKのアナウンサーの言葉に感心します。実にはっきりと最後まで聞き取れるように話します。私たちも、もっとはっきり明瞭に話しましょう。神様に祈る時にも神様に「ええ?何だって、聞き取れないよ」と言われないために。