私たちは信仰に生きるものですが、毎日の生活の中で、どう生きるか、どう信じれば良いのか、どう伝えれば良いのか、などHow toという機能面だけを求めがちです。そして肝心の、何を信じているのかWhat is という基礎を忘れがちです。
具体的に言うと、どう神を信じるか、どう信仰を持つか、ばかりに気を取られて、神とは何か、どういう神なのかという、信仰の最も重要な基礎Foundationを考えなくなっていないでしょうか。実はどう信じるかということは、何を信じているのかという基礎を良く知れば自然に判って来るものです。ですからもう一度自分の信じている“神”ついて学んで見ましょう。
神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。Tテモテ6:16
神様は目に見えないお方です。天国に行っても視覚的に見ることは出来ないでしょう。神を形の中に納めることは出来ないのです。あまりにも大きく、あまりにも聖であるからです。その代わりに御子が目に見えるお方として現れたまいました。天においても御子は視覚的に見、触ることが出来るお方です。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言についてTヨハネ1:1
ヨハネは御子にさわったという表現でこの世での現実的な御子の現れを述べていますが、これは当時はやり始めたグノーシス主義など、キリストは実際に肉体を取って表れたのではなく霊的に現れたという異端に注意をうながしているのです。
神は“存在する”という名前で御自分を表現されます。モーセがイスラエルの民に行く時、あなたの名を何と語ればいいのですかと聞いた時、神はこう答えられています
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。出エジプト3:14〜15
また、こうも言われました。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。出エジプト6:3
この主という言葉はエヒエ・アシエ・エヒエを短縮してヤハウエで「在りて有る者」という意味です。英語ではI am that I amまたはI amと訳されています。Be動詞で表される神、Be動詞とは奥行きの深い言葉なのですね。もともと、唯一の神には名前は必要ありません。名前とは他のものと分別するためにつけるものです。しかし、当時すでに沢山の偶像がありましたからイスラエルの民のためには名前をつける必要がありました。
十二使徒ではないが、ペテロと並ぶエルサレムの初代教会の重鎮だったキリストの弟のヤコブはこう言っています。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。ヤコブ1:17
神は完全ですから変化とか移動というものはありません。いつも同じです。また宇宙を創造されたので宇宙の中にいることもありません。宇宙を越えています。
初めに、神が天と地を創造した。創世記1:1
多くの偶像が宇宙どころか地上の物質に依存していることに比べてください。
しかも、その大いなる方は、その御性質が愛なのです。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。Tヨハネ4:8
何とも不思議ですばらしいことですね。宇宙を創造された方が“愛”だとは! 無機物のように無感覚であったり、怒り、憎しみ、恐怖ではないのです。
この愛の神は人間を愛してくださいました。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16
愛の神は愛によって宇宙を創造され、その中の地球の人間が逆らって罪を犯し悪に束縛されてしまったのを解放するために御子を遣わし人間の身代わりとして十字架に付けられました。それによって人間はもう一度神との関係を取り戻すことが出来ました。こんなすばらしい事実は信じないほうがおかしいでしょう。もう救いはあるのです。受け取るだけです。受け取らなければそのまま滅びるほかはありません。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」黙示録21:1〜5
間もなく神は世界を更新されます。そこには罪も悪もありません。美しい神の国に私たちは住みます。それまでもうしばらく罪と悪は世界を荒し回るでしょう。しかし、神を主と呼ぶ人々は平安の内に生きることが約束されています。詩篇100編にこうあります。
全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、
われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。
主に感謝し、その御名をほめまつれ。
主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
神について語ることはとても限りがありません。しかし、少しでも眼を上げてこの大いなる神を思いましょう。何を信じているのか。どのような神を信じているのか。それを少しでも知るならどう生きるかは自ずと判ってきます。