ホームページ・メッセージ121014        小 石  泉

生かされて

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20
 私は4月にがんが発見され、5月に癒されて6ヶ月たちました。この間、なぜ自分は生きているのだろうと何度も何度も考えさせられました。そして、最近になって得た結論は、私は“生かされている”のだということです。これは今まで感じたことのない全く新しい感情でした。このパウロ先生の言葉のようにはとても告白できないのですが、一つ言えることは、今の私の命は“預かったもの”だということです。自分のものではないのです。
 私たちクリスチャンは信じたとき自分に死にキリストに生きるものとされました。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。Uコリント4:10〜12
 理屈として、知識としては判るのですが、実際は生きているのはやはり自分です。悩んだり、苦しんだり、怒ったり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり。それは自分の命が自分のものだという意識があるからです。命が“預かりもの”だと判ると、何だか不思議な静寂の中にいる自分を見つけます。別に“悟りの境地”に達したわけではないのです。死ぬはずだったものが生きているわけですから生物学的に……心理学的に? 当然のことです。
 癒されてから、色々な方から「先生はこれから何をなさるのですか、新しい本を書かれるのですか」などと聞かれました。私は正直に戸惑いました。何かしようとは思っていないからです。
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ヤコブ4:13〜15
 もちろん、無為無策にだらしなく生きようとは思いませんが、何をなすべきかでさえ、主の御心次第です。私の“御心”ではなく。もし主が成せと言われれば何事でもしますが、自分から何かを提案することはないでしょう。
わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。ローマ14:8
 つくづくパウロ先生は偉大だと思います。主の御傍にいて、いつも身近に主を仰いでいるから言えるのでしょうね。私にしてみればとてもそんな告白は出来ません。ただ、生かされている限り、遠目で・・・主を見上げながら・・・静かに生きて行こうと思うだけです。
 ユダヤ人は「シャローム」と挨拶するそうです。「平安あれ」。静かに、安らかに、彼らの切実な願いなのでしょう。本当にそうなって欲しいです。あまりにも気の毒ですから。
 しかし、クリスチャンも確かにそう挨拶すべきです。   シャローム  シャローム