ホームページ・メッセージ121007        小 石  泉

逆説の宗教

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』マタイ21:42
 キリスト教とはなんと信じにくい宗教でしょうか。多くの場合、私たち人間の常識とは反対で、わざわざ信じにくくしているのではないかと思われるほどです。
 キリスト教はその最初に処女から子供が生まれたと言います。この時点でほとんどの人は信じられないと言うでしょう。その他にも、旧約聖書ではうまず女が子を産む話がいくらも出てきます。
 家を建てる者たち(石の大工)の見捨てた石、これは直接的にはイスラエルの宗教的指導者たちから問題にされなかったイエス様が、実は約束され待望されていたメシアだったと言うことを言っておられるのです。
 主イエスの700年前の預言者イザヤは来るべきメシアをこう表現しています。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。イザヤ53:1〜4
 これに比べて、イスラエルの最初の王サウルはこう書かれています。
キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。Tサムエル9:2
  しかし、その後のサウルは神に不従順で悪い王でした。
 聖書では、取るに足らない者、常識では考えられない者、一般的には奇人変人の類と思われる者が、神の器として神の働きをしています。士師記のサムソンはどう考えても品行方正な指導者ではありませんでした。ダビデは兄弟の数に入れてもらえないほど幼く父からも頼りないと思われていました。大人になっても大きな罪を犯しています。しかし、ダビデとは愛された人という意味であるように、生涯、神の寵児でした。
 預言者の中には無理矢理、変人のような行動を取るように神に命じられた人もいます。
主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。ホセア1:2〜 3
 恐らくは真面目で謹厳実直な預言者ホセアに対して神様はふしだらな姦淫の女をめとれと命じています。それはイスラエルが神の前ではその女のようだという印として国民に警告するためでした。それにしても気の毒なことです。人々からは「なんて変なやつだ」と思われたでしょう。
あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。エゼキエル4:4
 エゼキエルは寝るときに必ず左脇を下にして横たわるように命じられました。彼はイスラエルのために390日間、ユダのために40日間そうして寝なければなりませんでした。それもそれぞれの民族が神に背いた印でした。さらに自分のパンを焼くのに人糞で焼くように命じられました。(乾燥したもの)しかし、さすがにエゼキエルがためらい懇願すると牛糞で良いとされました。これも家族や友人や一般の人から見れば奇人としか思われなかったでしょう。「何で、こんなやつが神に用いられるのだろう・・・」人の目にはそう見えたでしょう。
 神様はそれが御自分から出たことで、人間の知恵や知識からではないことを示すために、あえて取るに足らないもの、人々、とりわけ家作りなどの専門家からは見捨てられ、あなどられる道を作られることがあるのです。こういうことはいつの時代でも、そう、今でも起こります。
 神に忠実であるとき、一般的には理解されない行動を取らされることがあります。神様は最後の最後になって逆転満塁ホームランがお好きなのではないかと思われるほどです。
 この宗教は普通の人が見ると、奇妙でありえないことが多いのです。私は仏教のお経を現代風に訳したものを読んだことがありますが、「これなら自分でも書ける」と思いました。ごく当たり前で常識的なことです。良いことは良い、悪いことは悪い。
 しかし、聖書は人間の意表をつきます。人間が考えることが出来る範囲や常識を超えています。クリスチャンも案外こういう人間的な範囲を設定して人を評価します。キリスト教の歴史を見ると、こういう失敗が沢山あります。気をつけてください。そして神の評価、神の期待に応えることが出来るように、心を広げてニュートラルにしておくことも必要なのです。