ホームページ・メッセージ120923        小 石  泉

生きる意味

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3:20
 今年になって、相次いで親しい人を天に送って、つくづく考えさせられたことは生きることの意味でした。私と言う存在には何の意味があるのだろうか。地のちりに等しい自分が生まれて来、生きて来たことに何の意味があるのだろうか。これは人間なら誰でもが一時は陥る空しい穴ではないでしょうか。
 しかし、私がキリストを信じたときから、私は天国の民となりました。天の国籍をもらったのです。私は天国の国民の一人に数えられたのです。天国の人口が一人増えました。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。Tコリント12:27
 私は宇宙の創造者であり管理者である全能の神のからだの一部となったのです。私がいなければキリストの御からだの一部は欠損するのです・・・・大胆な発想ですが、理論的には事実でしょう。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。創世記2:7(口語訳)
 神の天地創造の目的は人間を作ることだったのです。この広大で無限の宇宙は人間の生存のために創造されたのです。なぜ神様は人間を創造したかったのでしょうか。それは永遠に自分とともに生きる者を創りたかったからです。そしてそれはただ単なる被造物ではなく、自分の意志で神とともに生きる事を選ぶ霊的存在でなければなりません。もし自分で選らばなかったら全く意味はありません。地のちり、動物、ガラクタと代わりません。
 アダムは地のちりから造られエデンの園で永遠の命をいただいていました。彼は無垢であり罪を知らないからだでした。彼は自分の意志で神を求めたのではなく、生まれながらの自然な存在でした。神はアダムを愛されたのですが、アダムは自分の意志で神を受け入れたのではなかったのです。造られたままでした。そこに一方的な愛の空白がありました。神の創造の最後の目的は、自由意志で神を愛する人々の存在でした。
 言いたくはないのですが、人間はキリストに会うまで空しいちりです。アダムとはちり、すなわち土です。(赤いと言う意味のアダマーから来ている)だから死んだら土に帰るのです。しかし、キリストを信じた瞬間から永遠の命を与えられます。
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。Tコリント15:45(口語訳)
 ここに言う「最後のアダム」とはキリストのことです。最後のアダムであるキリストはアダムが永遠の命を失ったのとは反対に永遠の命を与えるものとなりました。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。Tコリント15:22
 これら全てはゴルゴタの丘の前でのキリストの十字架によっているのです。私が無価値なものから価値あるものに変えられたのも、一方的なキリストの努力によるのです。私はただ“信じた”だけです。
 私ってなんだろう。生きて来たことに何の意味があるのだろう。これから生きることになんの価値があるのだろう。そう考えた私の結論は、私は価値あるものに変えられ、その価値を人々に表すためだということです。私と言う存在が、神の命を表すものでありますように。人々が私からキリストの御からだ、天国の民の香りをかぐものでありますように。そんなことは私には不可能ですが、変えられた方が変えてくださいますように。そんなことを祈りながらもう少し生きて行きましょう。