ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」創世記28:11〜17
先日、大震災の被災地に行ったとき、見渡す限りの災害の跡を見、胸ふさがれる思いでした。一度に20000人もの人が死んだことを改めて悲しく思いました。そして、こんなことを考えました。もし、私たちが霊の世界を見ることができたら、その時、霊界はどんなだったのだろうか。大混雑だったのだろうか。
人間は霊の世界を見ることは基本的には許されていません。しかし、中にはそういう人もいます。引用の御言葉では、ヤコブはこの時、夢の中で霊界を見たのです。天にまで届くはしごがあって、天使たちが上り下りしていたのです。ヤコブは驚いて「ここは神の家だ、天の門だ」と言ってベテルと名づけました。ベテルとは、ベト(家) エル(神の)と言う意味です。ヤコブに限らず、聖書の登場人物の中には霊の世界を見ることのできた人がいます。
王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。U列王6:13〜17
預言者エリシャを滅ぼすために、敵国のシリヤの王は大軍をエリシャの家の前に送りました。それを見た僕は驚き恐れてエリシャに告げると、エリシャはすこしも恐れず「私たちとともにいるものは、彼らより多いのだ」と言います。すると「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを僕は見たのです。
もし私たちがこのように霊的世界を見ることができたら、ずいぶん面白いし、無駄のない人生を送ることができるでしょう。しかし、それは肉のままなる人間には許されていません。一般の世界でも霊の世界を見ることは大きな関心事です。ギリシャ、エジプトの時代から今にいたるまで、霊の世界を見ることは重大な事業でした。霊能者、霊媒、占い師など霊的世界を見るといって生計を立てている人々は大勢います。
被災地に行く途中に、遠野と言う町があります。そこを通った時,柳田國男の「遠野物語」という文学作品を思い出しました。日本の農村に伝わる霊的世界の物語です。私は美しい山野に感動していましたが、一方で閉鎖された社会の暗い裏側があったことを思いました。山々は緑豊かで、川も清らかな水が豊かに流れています。広い平野にはどこまでも田が続いています。一見、平和で静かで豊かな農村ですがそこには、長い歴史の中で交錯した霊的世界の記憶や想像力の呪縛があるのではないだろうかと思いました。
そこで彼は言った、「あなたは、わたしがなんのためにきたかを知っていますか。わたしは、今帰っていって、ペルシャの君と戦おうとしているのです。彼との戦いがすむと、ギリシヤの君があらわれるでしょう。ダニエル10:20
ダニエルに現れた神の使い(この場合は受肉前のキリスト)はペルシャやギリシャを支配する霊的存在について語っています。ある人々は認めませんが、私は、これは霊的世界の事実だと思います。長く続く国や町にはそこを支配することを許された霊的権威がいるのだと私は信じています。それは強力な堕落天使の下に厳密なヒエラルキー(階級制度)があって、大から小にいたるまでの霊的配下が活動しているのだと思います。
ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。ヨブ10:1:6〜1:7
この不思議な箇所から,サタンは「地を行き巡り、そこを歩き回って」いると考えられます。サタンは遍在(同時にどこにでもいること)できないので、世界を駆け巡らなければならないのです。そしてそれぞれに配置した部下を支配しているのでしよう。
あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。エぜキエル28:3
ここはサタンとなる前のルシファーについて書かれたところですが、私はむしろ人間のダニエルとルシファーを比較していることに興味を持ちます。人間と天使はそんなに遠くない存在なのです。
日本で伝道するとき、この霊的権威との戦いがあることを理解すべきです。数十年前、ある関西の古い町に行ったとき、電車を降りると突然、言い知れぬ圧力を感じました。古い町には長い間そこに住んでいる霊的存在がいるのでしよう。韓国の有名な伝道者も成田空港に降り立つとやはり霊的な圧力を感じると言います。それがもっと可視的に見えるといいのですが、なかなか見えません。また、あまりこういうことに興味を持つと信仰が変質してしまう恐れがあります。見えるようで見えない、無いようで有る。そのような不確かな交流しか許されていないのでしょう。それをもっと見たいと精進し、断食や祈りに没頭して霊的能力を研ぎ澄ますことも出来るのかもしれませんが、私は結局、そういう道は選べず、凡人として生きる事を選びました。霊的世界を知りたくて悪霊の提供する怪しげな世界に導かれる人々のようにはなりたくないこともありました。
いつか、ある日、キリストの待つ本当の霊的世界に目覚めるまで、取っておくことにしましょう。