しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
Tテモテ6:6〜8
私の所属する教団が岩手県大槌町に支援センターを開所するというので、その開所式に出席するために初めて大震災の被災地を訪れました。1年半経っているので瓦礫は片付いていましたが、荒涼とした光景は変わっていません。見渡すかぎり家々の白いコンクリートの土台が数千、数万並んでいます。恐らく立派な家々が建ち並んでいたのでしょう。全ては失われてしまいました。歴史上、三陸海岸には何度か津波がやってきました。しかし、今回ほど経済規模の大きな損失はなかっただろうと思いました。
それにしても、家というものはこんなにも簡単に失われてしまうものなのでしょうか。家といえば私たちが一生かかって求めるものです。夢であり、心を置くところとして、頼みとし、喜びも悲しみも経験する土台です。それが消え去ってしまうなんて。
上記の御言葉には“住まい”がないことがいつも気になっています。衣食住ではなく、衣食だけです。被災地を見ると、この御言葉の真実さが痛切にわかります。この地上に永遠に続くものはないのです。イエス様はこう言われました。
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。マタイ8:20
この世の王たちは豪壮な邸宅や城を建てきらびやかさを競います。しかし、主の主、王の王たる神の御子はこの地上には小屋すら持ちませんでした。
だからと言って家を持つことが悪いと言うのではありません。持つことができれば幸いです。しかし、どんなにすばらしい家でも、火事や、地震や、戦争で失われてしまうことがあるということを心にとどめて置くべきです。
これに比べて天の世界に関する御言葉には住まいと言う観念が非常に大きいことに気がつきます。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。ヨハネ14:2
イエス様が約束されたのは、平安、歓喜、命など抽象的なことだけではなく、具体的に“住まい”なのです。そこにこそ、永遠に失われない“家”があるというのは聖書の強い主張です。次の御言葉は魂の住まいを言っているのでしょうが、家という言葉でしか表現できない何かがあるのです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。Uコリント5:T
昔、こんな歌がありました。
夕べの星が光るころ 野良から帰るお父さん
お風呂が沸いて、ご飯ができて、明かりがついた 家の中
それは平安の場所であり、家族が憩う場所です。天においてはもっと大きな、神を父とする永遠の平安の家があるのです。天の家は想像を絶する豪華さです。
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。黙示録21:10〜27
この都は無機質で鉱物的な印象を与えるのですが、この周りや中には緑豊かな田園地帯が広がっているのではないかと、私は想像しています。
先週、家内の親友で、一卵性双生児のようだった姉妹が天に召されました。がんの苦しい息の姿を見ていたので、長くないかなと思っていましたが、お姉さんによると突然安らかな表情に変わり息を引き取られたそうです。その顔はまるで笑っているかのようでした。お姉さんは「美智子先生に会って喜んでいるのね」と言っておられました。今頃は二人で手を取り合ってイエス様にお会いしているのでしょう。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」と言う御言葉を実感します。
大槌町の支援センターは「大槌町ジョイフルハウス」と言います。破壊され、悲惨の極みであった被災地に、小さな喜びの種を蒔きました。人々の心に喜びが芽生えて咲き誇りますように。