それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。出エジプト34:29:〜35
モーセがシナイ山で神と出会って降りてきた時、彼の顔は光っていたので、イスラエルの人々は彼を見るのを恐れた、それでモーセは顔に覆いをかけたと聖書にあります。これはまるで放射線を浴びた人のようです。その放射線は人体に有害で危険なものではなく、神聖で荘厳な神の栄光でした。神様と直接お会いして話すと、この命にあふれた放射線を浴びるのでただではすまないのです。その人は栄光に輝くのです。
パウロはこのことについて次のように語っています。
私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。Uコリント3:4〜18
パウロは大胆にも律法に関わったモーセよりも福音に関わるものの方がもっと栄光に輝くと言っています。これはユダヤ人にとって許しがたい言葉でしょう。そしてこの言葉ほど現実とかけ離れて感じられる言葉もないでしょう。実際に顔の皮膚が光っていることの方がどんなに分かりやすく強い印象を与えるでしょうか。また私たち自身もこのような栄光とは程遠い自分を見るのです。
神と接する神聖さと日常の人間性とはどう考えても矛盾します。栄光から栄光へと変えられることは夢のように望ましいことですがアダム以来の肉の性質とは一致しません。それにもかかわらずパウロは「主と同じ姿に変えられる」と言っています。
多くのクリスチャンはこの矛盾に悩み、のびやかで喜びに満ちた生活ではなく、堅く冷たく引きつった人生を歩んでいます。これは神の求めておられる生活ではないはずです。
私たちを「栄光から栄光に変える」のは私たちではなく神です。努力してなるものではありません。神様が求めておられるのは私たちが喜びを持って人生を生きることです。アダムとエバが最初に住んだのはエデンでした。エデンとは“喜び”という意味です。
神の栄光を被爆すると“喜びの痕跡”が残ります。あなたが神様に全てをゆだねて生きる時、人はあなたの顔に神の栄光を見るでしょう。それは私たちの人間性を改善することによってではなく、思いがけずに起こるハプニングです。真夏の太陽に当たれば日に焼けるように、神様に当たれば栄光に輝きます。それは皮膚にではなく魂を変えます。そしていつか主と同じ姿になるでしょう。
今日のあなたの栄光の被爆量はどれくらいですか?