イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。マタイ4:18〜20
私の名は小ペテロと申します。私はガリラヤ湖の漁師でした。ある日、いつものように網を打っていると、岸辺に見知らぬ人が立っていて、私に向かってこう言うのです。「わたしについて来なさい。あなたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。見ず知らずの人がまるで当たり前のようにこう言うのを聞いた時、私はこの人についていかなければならないと思いました。私たちユダヤ人は預言者の声には従うように幼いころから教えられています。私はその人が預言者だと思いました。それで、ついていくと他にも同じように集められた12人の人々がいました。みんな、無学な普通の人々です。中でも同じ漁師仲間で後に中心的な役割をすることになる大ペテロもいました。私たちは間もなく、あまりにも不思議なその人を主と呼ぶようになりました。
最初に主はガリラヤ湖の北岸で全くそれまでの預言者や律法学者とは違う話をされました。そこは緑の草の中に真紅のアネモネが無数に咲いている傾斜地で、自然の円形劇場のような場所です。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。マタイ5:3〜12
それはローマの占領に苦しむ私たちに干天の慈雨のように慰めと励ましを与えるお話でした。
私たちはその日から、イスラエル中を歩き回る一団となりました。そして私たちは主のなさる多くの奇跡の目撃者となりました。それはヨハネの言うように無数の奇跡です。
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。ヨハネ21:25
私たちは主が5つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人以上の群集に食事を与える時、忙しく働きました。また二千匹以上の豚がガリラヤ湖に浮かぶのを見ました。ガリラヤ湖を渡るとき大嵐になって船が沈みそうになったとき主が一言で嵐を静めたのを見ました。やもめの一人息子が死んだ時、やもめを哀れんで息子を生き返されるのを見ました。主が親しくされていたラザロを墓からよみがえらせたのも見ました。
そして、あのエルサレムに主が平和の使者の乗るロバに乗って入場される時、私たちも凱旋将軍の部下のように意気揚々と行進したのです。
間もなく、とある二階座敷で主がぶどう酒を自分の血、パンを自分の体と言われたのを聞きました。その時は、何をおっしゃっているのか分かりませんでした。ユダの裏切り。やがてゲッセマネの園で血の汗を流して祈られるのを石を投げて届くほどの距離から見たのですが、深夜で睡魔には勝てず眠りこけて主に叱られました。
祭司長たちが差し向けた兵士と暴徒の群れに主が捕われる時はあわててその場から逃げました。しかし、大祭司カヤパの邸宅での裁きやローマの総督ピラトの庭での尋問の時は群集にまぎれて遠くから見ていました。四十に一つ足りない鞭打ちと十字架。女性たちが遺体をアリマタヤのヨセフの墓に葬るのを遠目に見ていました。女性は寛大に扱われますが私たちは危険だったのです。
そして、三日目の復活。マリヤたちの驚きの報告をひそかに集まった弟子たちと共に聞き、確認に走りました。間もなく困惑する私たちの中に主が現れました。「シャローム」あの懐かしい聞きなれたお声を聞いたのです。何という喜び、何という感謝。十字架に打ちひしがれた私たちは全てが分かりました。このためだったのか。全ての謎が解けました。
やがて、もう一度ガリラヤ湖に戻った私たちに主は現れました。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。やって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。ヨハネ21:4〜12
東の空が明るくなるころ私たちはガリラヤ湖の岸辺に円陣を組んで座っていました。静かに燃える焚き火。主はどこからかパンと魚を持ってこられて調理をし、焚き火の上で焼いておられたのです。一晩中網を下ろしても一匹も取れなかったのに百五十三匹の大量です。疲れて空腹だった私たちは主の下さるパンと魚を食べました。誰も何も言いませんでした。それがあの主であることは誰にも分かっていました。時々、焚き火の揺れる炎に照らされる主の御顔を見ながら。
ここで大ペテロは主からもう一度重大な務めを頂きました。そして私たちはもう一度エルサレムに戻って主が昇天されるのを見ました。そして、五十日目の聖霊の降臨。間もなく私たちは福音を携えて全世界に出て行ったのです。ユダの開いた場所はやがてパウロが埋めてくれました。
私の名前はギリシャ語でペトロス、日本語に訳せば小石となるそうです。
どうしたらもっと主のお近くに行けるのだろうかと考えた時、そうだ、十二使徒に入れてもらおうと思いました。十二使徒も初めは無学なただの人だったのです。私でも入れてもらえるだろうと考えました。そして、結局、それが一番主に近い場所だと思いました。女性の場合はマルタやマリヤたちのようにお仕えすることが出来るでしょう。私たちはみんな十三人目の弟子なのです。