今日はちょっと軽い話題をしましょう。日本の神社の前には必ず狛犬という彫像が二つあって、片方は口を開けて「ア」片方は口をつぐんで「ウン」と言っていることになっています。そして「阿吽(あうん)の呼吸」などという、分かったようで分からない意味が与えられています。狛犬というのはライオンのことです。
ところでオーストリアのウイーンのハプスブルグ家の玄関にも二頭のライオンがいて、片方は口を開け、片方は口をつぐんでいます。私の知人がそこを訪れたとき、あまりにも狛犬と似ているので、案内人に「このライオンはなんと言っているのですが」と聞いたのです。すると驚いたことに「アーメンです」という返事でした。
実はイスラエルの伝承で、ソロモンの王宮の玄関には二頭のライオンの像があったと言われています。そうしてみるとこのライオンの像は西と東に伝えられ、西に行ったのは「アーメン」がそのまま残り、東に行ったのはシルクロードの遠い旅路の果てに日本に着いた時には「阿吽」になってしまったのではないでしょうか。日本人はヘブル語のアーメンをアウンと覚えてしまったのでしょう。聖書から遠い国だと思われていた日本に、実はヘブル語を語源とするものがあるとは驚きではありませんか。そして実は調べてみると日本にはヘブル語を語源とする言葉が無数にあることが判ってきています。
アーメンはヘブル語で「真実に」「本当に」という意味です。イエス様が「まことに」と言った場合、それは「アーメン」と言っておられるのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。マタイ5:18
これは特に大切なことを印象付ける場合に用いられています。「よく聞きなさい」「覚えておきなさい」というような意味で使われたようです。
一方でハレルヤという言葉も日本人にはごくなじみのある言葉なのです。日本語で「晴れる」という言葉は「天気がはれる」「晴れの日」「晴れやかな」「晴れ晴れとして」「晴れ着」「晴れがましい」と言うように、喜ばしい、楽しい表現として使われます。ヘブル語の「ハレル」も「喜ぶ」「祝う」「褒めたたえる」などの意味があります。「ハレルヤ」の「ヤ」は神様のお名前が短縮されたものです。正確には「ヤハウエ」と言います。英語表記ではYHWHとなります。そういう訳で「ハレルヤ」とは「ヤハウエなる神を褒めたたえます」という意味になります。
旧約聖書は筆記して保存継承されたのですが、その作業を軽減するために母音を除いて子音だけで表しました。この四文字は「テトラグラマトン」と呼ばれる聖なる言葉で、軽率に口にしてはいけないと命じられました。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。出エジプト20:7
ここでみだりに唱えるというのは口にしてはいけないと言う意味ではないと思います。英語を少し学んで行くと、神様やイエス様の御名を非常に汚らわしい意味で使うことに驚きます。これは日本語にはない言葉です。そう言う事を戒めているのです。
日本人は気合を入れる時、「ヤー!」と言いますが、ヘブル語的に言えば、これは「神よ!」と言っていることになります。当たらずとも遠からずで、似ているのが不思議です。
その他、有名な話ですが、日本に「トラの巻」という言葉があります。大切な巻物(書物)のことです。ところがヘブル語でもモーセの五書のことを「トラー」と言います。昔、聖書は巻物でしたから、正に「トラの巻」でした。
私は日本人はユダヤ人の子孫だと言う「日ユ同祖論」には反対でした。馬鹿馬鹿しいと思っていたのです。ところが次の話にびっくりして考えを変えました。
長野県の諏訪大社には守屋山という丘があります。その前で行われる祭りがあります。その丘の前で少年が木に縛られ一人の神主が短剣をかざして殺そうとします。するともう一人の神主が出てきてそれを止めるのです。そして代わりに数頭の鹿を殺して捧げます。その中の一頭は必ず耳に傷がついています。藪に引っ掛かっていたからだと言うのです。
どう考えてもこれはモリヤの山でのアブラハムとイサクの物語の正確な伝承としか言い様がありません。世界のどこにもこんな祭りを行う民族なんていません。ユダヤ人以外は。こんな話を聞いたら、どんなユダヤ人でも「あなた方は私たちの兄弟です」というでしょう。今はかなり簡略化されていて、この通りではないそうですが、昔は本当にそういう祭りがあったのです。驚きではありませんか。
これらはほんの一部で、もっとすごい数のヘブルとの共通点があるのです。しかし、それらは本来の意味が全く忘れられ、完全に別の宗教、別の精神となっていますから、そこから聖書の教えを導き出す事は危険でしょう。ただ、聖書とは全く縁遠いと思われていた日本が以外にも原始的な旧約聖書の世界を持っていたと言うことは心に留める価値があると思います。なんとかして幾人かを主に導くために。
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。Tコリント9:19〜22