ホームページ・メッセージ120603        小 石  泉

深い淵

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」ルカ16:19〜:31
 この物語を実話だと言う人がいます。それはラザロという実名が語られているからだというのですが、そうするとアブラハムのふところというのがおかしいと思います。まるでアブラハムが巨大な神のように受け取られかねません。私はイエス様と非常に親しかったラザロ、マルタ、マリヤの3兄弟のラザロの名をちょっと使ってたとえ話をされたのではないかと思います。その後(恐らく)、ラザロは死んでよみがえらされました。このアブラハムのふところというのはアブラハムの信仰のことです。ローマ書でパウロはこう言っています。
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。ローマ4:19〜24
 私たち新約聖書の聖徒たちにとって、このアブラハムの位置はイエス様の位置です。しかし、まだイエス様は十字架にお掛かりになっていませんでした。それで旧約聖書の民イスラエル人に分かりやすいようにアブラハムのふところと言われたのでしょう。そこは別名をパラダイスと言います。
 この金持ちは黄泉の火の池の中から見上げると、パラダイスにいるラザロが見えました。彼は生きている間、霊的なことに関心がなく、ただ目の前の物質的な世界だけに関心を持っていたのです。私たちの周りの99%の人々は同じように霊的なことに関心がないか、あってもサタンが提供する間違った霊的世界しか知りません。最近の傾向として、この暗い闇の世界に異常な関心を持つ人々が増えているのが心配です。
 ラザロは生前、何の良きものも与えられませんでした。惨めな皮膚病のホームレスでした。だからと言ってホームレスがんみんなパラダイスに行くわけではありません。ラザロには正しい信仰がありました。しかし、信仰があればすべてがうまく行くという“繁栄の神学”からは取り残されていました。イエス様は一生うだつがあがらず、惨めな病で、住む家もないあわれな人間でも、正しい信仰者でありうると言っておられるのです。信仰を持てば物質的な繁栄があると盛んに教えているアメリカのテレビ伝道者やメガチャーチの偉大な牧師たちはこの箇所をどう説明するのでしょうか。
 アブラハムはこの金持ちと自分たちの間には“大きな淵”があると言っています。互いに行き来できない越えがたい深淵です。芥川龍之介はこの箇所からあの「蜘蛛の糸」の題材を見つけたのでしょうか。しかし、その真理を見つけられないまま、枕元に聖書を置いて自殺しました。
 このようにパラダイスと黄泉の間には永遠に越えられない大きな深い淵があります。この淵の亀裂はこの世にもあると思わされます。私たちの教会の周りには親切で優しい人々が住んでいます。しかし、まるで深い淵があるかのように決して教会の門をくぐろうとはしません。これらの人々が、あの金持ちのようにみんな黄泉の苦しみの中から私たちを見上げる日が来るのでしょうか。そうは考えたくありません。だからと言って聖書がまったく保障していない、いわゆるセカンドチャンス(死後、もう一度救いのチャンスがあるという期待)があるとも言えません。日曜日の朝、レジャーに急ぐ人々や車の列を見ると、彼らのデステネーション(目的地)が黄泉であってほしくないなと思いますね。