ホームページ・メッセージ120513        小 石  泉

新しく生まれると言うこと

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」ヨハネ3:1〜15
 ニコデモはかなり高位のラビ(ユダヤ教の牧師のような立場にある人)でした。それで昼間にイエス様にお会いに来る事が出来ず、夜中に来たとヨハネは書いています。このニコデモに対してイエス様は「新しく生まれなければ」神の国を見ることは出来ないと言われました。ニコデモはこの意味が判りませんでした。年を取ってもう一度母の胎から生まれることができましょうかと、ラビらしからぬつまらない返事をしています。
 新しく生まれるということは新生児を見ればすぐに分かることです。私は最近二人の孫をほぼ同時に持ちました。息子と娘にそれぞれ二番目の子が生まれたのです。抱きあげるとその軽さに思わず驚かされます。そして生まれたばかりの幼子は全く何も無いことを痛感します。自分を守る力も、既成の概念も、知識も、権威も、権勢も、富も、名声も、ありません。誰かが守らなければ即座に死んでしまう脆弱な状態です。その無防備さが痛いほど伝わってきます。かすかで小さな命です。
 イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」といわれました。どんなに偉大な人でも、霊の世界に生まれた時は新生児なのです。霊の世界については何も知りません。脆弱で無防備なのです。ところがなんと多くの人が既成の力や知識や権威や権力や富を信仰の世界に持ちこもうとするでしょうか。これがキリスト教会の歴史的な弱点となってきました。
 教会をやってきてやっかいに思うことはどうしてもこの世の価値観や知恵や損得が入ってくることです。霊の世界は肉の世界の延長ではないのです、それが中々分からない。一旦、全ての肉的な発想を捨てて、ゼロから出発しなければならないのです。ニコデモは豊富な聖書知識を持っていたはずです。それすら一旦無にして新しく生まれなければならなかったのです。
だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。Tペテロ2:1〜2(口語訳)
 今生まれたばかりの乳飲み子。いとけない赤ちゃんを抱きながらこの言葉を思い出すと本当にその意味が判ります。新しく生まれるということはこの赤ちゃんのように何も無い状態になることです。ただ慕い求めるのは神様の下さる霊の乳だけです。真っ赤な顔でおぎゃー、おぎゃーと泣きながら。