ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。イザヤ9:6(口語訳)
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(新改訳)
ここはクリスマスの時に良く読まれる箇所ですが、少しクリスマスを離れて考えてみましょう。これはイエス様の別名、称号の一部です。しかし、私たちはまだこのようなイエス様を知りません。最初の称号を、口語訳聖書は「霊妙なる議士」と訳していますが、新改訳の「不思議な助言者」の方が分かりやすいし、英語とも合致します。Wonderful Counselorですが、wonderという言葉は驚異、驚嘆、驚きを意味する言葉で、Wonderfulは驚きで一杯という意味です。
私たちが一番知っているイエス様はこのような栄光のお姿ではなく、謙譲のお姿でした。
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
イザヤ53:1〜3
それは救い主として人の罪を身に負うお姿でした。馬小屋に生まれ、十字架に掛かられる御生涯でした。それでも一度だけ最も身近な弟子たちには御自分の栄光のお姿を少しだけ垣間見せられました。
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。マタイ17:1〜4
ヨハネはその後、もう一度栄光の主イエスにお会いしています。それは主が天に帰られた後、地中海のパトモス島で見た幻の中でした。
そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。黙示録1:12〜17
私たちは主イエスの栄光のお姿をまだ見ていません。それは次の場合は恐ろしいお姿です。裁き主として世界にやってこられる時です。主イエスの愛弟子だったヨハネでさえ、恐ろしさに気絶しました。
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。黙示録19:11〜16
このような主イエスの顕現(けんげん)(現われ)の前に、サタンは自分がそうであるかのような演出をするでしょう。あらゆるテクノロジーを使って、人々を驚かせ、自分こそ主の主、王の王であると見せ付けるでしょう。多くのクリスチャンも騙されるかもしれません。しかし、真実に目を留めることを学んでいれば騙されることはないでしょう。
やがて、本当の栄光の主が来られます。それは言葉では表せない栄光と威厳に満ちたお姿でしょう。私たちは主イエスさまを福音書の中だけに留めていることが多いのではないでしょうか。確かに福音書の主は美しいです。謙遜に満ち、愛に溢れ、人類の歴史上、これほど美しい物語もないでしょう。しかし、王として、裁き主としての権威と栄光に満ちたお姿も忘れてはならないのです。私たちは、今はまだ見ていませんが、信仰により見ているようにして生きるのです。
ところで主御自身の「栄光」の考え方は違います。
さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。ヨハネ12:20〜24
ここでイエス様が「栄光を受ける時が来た」と言われたのは、十字架に掛かるという意味です。人間のために死ぬということが栄光を受けると言うのです。何という違いであることか。感謝ですね。
今から45年前、初めてアメリカに行った時のことです。太平洋の上空1万メートルを飛んでいる時、私は初めて見る高い空と広い海にすっかり魅了されていました。神様の創造の御業の大パノラマのすばらしさ。そこでこんな詩を作りました。
太平洋の空の上 地の果ての見えるところ
青地に白のかすりの織布 彼方は雲の城の壁
こけおどしに群がり立つ 乱雲の小人たち
空は深く 海は堅く
太平洋の空の上 地の果ての見えるところ
そして、何気なく聖書を開くと、それは詩篇150編でした。
主をほめたたえよ。その聖所で神をほめたたえよ。その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。
頭の先からつま先まで衝撃が走りました。私は正に“大空で”主をほめたたえていたからです。