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霊の流れと覆い

 今、日本には教会に行かないクリスチャンがかなり多くいます。その理由はそれぞれ違うでしょうが、大きく分けて二つ考えられます。一つは教会が彼らの願いを満たしてくれないことです。これは聖職に携わるものの一人として、辛いことですが、悲しい現実です。世界には多くの職業がありますが、多くの場合、その職業に習熟するには多くの時間と教育が必要です。牧師や伝道者も同じことだと思います。ところが3年から4年の神学校を出ると、もう一人前の教職者とされます。お医者さんが6年も7年も教育を受け、更に数年間の研修医を経て医者になるのと比べて、あまりにも簡単です。
 聖職者の場合、職業に着くと言うより神に召されたという使命感からの場合が多く、そこに情熱や信仰が加わって、時には過激になったり、暴走したりということになりかねません。プロテスタントの教会は牧師の個性がその教会を支配する場合が多いので問題も起こります。カトリックの優れた点は聖職者の個性によらないで教会の運営にユニバーサルな規定があることではないかと思っています。(間違っているかもしれませんが)しかし、一方で、確かにプロテスタントの場合聖職者の使命感と情熱と努力で教会が形成されることも多く、どちらが良いのか決めることは難しいです。いずれにしても理想的な教会というものは中々ないというのが実情です。
 もう一つは信徒の側の問題です。最大のものは霊的な事柄に対する無理解から来ていると思います。万民祭司説が誤解を招いています。日本人の牧師に対する思いは韓国や他の国々に比べて非常に軽いです。神の前にみな平等ですが聖職に関るということは別の問題です。アメリカでも牧師に対して“ブラザー”と呼びますが聖なることに関わるという尊敬は失われていません。
 イスラエルは“祭司の民”と呼ばれ世界の民族の代表として祭司であることを期待されています。しかし、その祭司の民の中にレビ人が選ばれ、その中から祭司が選ばれ、その中から大祭司が選ばれました。それらの人は他の人とどこも変わりませんが、その仕事、聖なることに関わるという部分は非常に大切にされました。パウロはクリスチャンも祭司の民だといっています。しかし、その中に聖なることに直接関わる聖職者がいるということは理解しなければなりません。神に直接関わることは清く恐るべきことなのです。この神との関わりの神聖さが理解されていません。
こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。Uサムエル6:6〜7
 ウザは神の箱が落ちそうになったのでそれを止めました。しかし、それは軽率な行動でした。教会を離れて自分で教会を作ろうとする人々がいます。それが神様から出たことなら良いのですが、軽率な行動で始めるなら罪になります。
 霊の祝福と平安は縦の流れで来ると私は信じています。アブラハムやモーセのように直接神と話した人々は自分の上に霊の権威を持ちません。しかし、エリシャの場合エリヤに霊の権威を認めその霊の二つの分をくださいと懇願しています。
渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。U列王2:9
 これは意外と理解されていないのですが自分の上に人間の霊的権威を持たないということは非常に危険です。それは霊の覆いを被っていないことで直接サタンの攻撃にさらされるのです。あなたがアブラハムやモーセのような人なら結構ですが。
 私は長年単立教会としてやってきましたが自分の上に霊的権威の必要を感じて今の教団に入れていただきました。そこにすばらしい指導者がいたからです。彼は同い年でしたが忍耐と寛容に成熟したすばらしい人格者でした。彼は昨年神に召されましたが、彼と過ごしたこの年月は私にとってダイヤモンドのように輝く日々でした。決して彼やその教団が完全だったわけではありません。しかし、完全な人や団体などこの世に存在するわけはありません。
 霊の祝福や恵は上から下ってきます。だから自分の上の権威はその上の権威から恵みと祝福を受け、その権威はさらにその上の権威からそれを受け・・・・・ています。牧師の認証式で若い牧師が年配の牧師たちから按手を受けるのはそのためです。
 この霊的権威は所属する教会の牧師とは限りません。もちろんそれなら最高ですが、牧師が未熟だったり、過激だったりする場合はあなたが尊敬できる人をあなたの霊的権威と決めることが出来ます。そして出来るだけ所属する教会に仕えるべきです。
 ただしダビデがサウロから逃れて荒野をさ迷ったように、どうしても教会を離れる場合があります。サウロは精神を病みダビデを殺そうとしました。それでもダビデは決してサウロに逆らいませんでした。その気になればいくらでも軍隊を起こしてサウロを殺すことは出来たのです。しかし、あの洞窟の中に一人で入ってきたサウロを一太刀で殺すことができた時でさえしませんでした。それは神の選ばれた霊的権威を認めていたからです。これは神様に喜ばれる態度でした。どうしても教会を離れなければならない時でも、決して指導者の悪口を言いふらしてはなりません。それはダビデの姿勢の反対の行為です。
 ある青年が前の教会の牧師の悪口を、口を極めて言っていました。彼は自分をダビデと呼んでいたので、それは違うんじゃあないか、ダビデはそういうことはしなかったと戒めたことがあります。彼は聞きませんでしたが。
 自分の上に霊的権威を認めるということはそんなに簡単なことではないかもしれません。そういう人がいなかったらどうしたらいいのでしょうか。
 良い御言葉があります。
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。Uペテロ2:17