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ユダヤ人とクリスチャン

 最近、あることから、ユダヤ人とクリスチャンの違いについて考えさせられました。ユダヤ人はユダヤ人の家庭でオギャーと生まれればユダヤ人です。ところがクリスチャンの場合クリスチャンの家庭に生まれても「信じなければ」クリスチャンではありません。ユダヤ人の場合「信じようと信じまいと」ユダヤ人であり「神の選民」です。キリスト教の場合「信じる」ことが絶対条件ですがユダヤ教の場合信じる必要はありません、むしろ「従順である」ことが絶対条件です。
 キリスト教は元々ユダヤ人の中に生まれましたが、間もなく異邦人の中に植えられ成長してきました。ユダヤ人はメシアを待ち望んでいました。しかし、そのメシアが来た時「信じません」でした。そして言わばユダヤ人が長い年月待ち望んでいた解答を、異邦人が思いがけずもらったのです。ユダヤ人という受験生が問題集を長い時間かけて勉強してきたのに、異邦人は解答集から始めてしまったようなものです。しかし、ユダヤ人という受験生は受験資格を失うことはありませんでした、いつでも受験して合格することが約束されています。
そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。ローマ11:13〜20
 歴史上、多くの民族が興隆しましたが滅びました。ユダヤ人は国を失いましたが、もう一度再建され栄えています。彼らの一部は世界の富のほとんどを握っています。旧約聖書の神はユダヤ人に、「もし自分に不忠実なら、滅ぼす、苦しめる、悩ます」といっています。しかし、本当に無慈悲なら何も言わないで滅ぼしてしまったでしょう。全能者の神なら一気に滅ぼすことなど簡単なはずです。なぜあれほどこだわるのですか。まるで悪女の深情けみたいに、お前は裏切った、不忠実だった、と延々とうらみつらみを述べ立てています。それほど愛しているのです。聖書の言葉の裏側、本当の意味は「決して捨てない」ということです。だから私を愛してくれと懇願しているのです!
  新約聖書の場合は元々が異邦人が対象です。ですからユダヤ人のように神との切っても切れない縁というものがありません。だから正面から愛を語ります。それに応えなければそれで終わりです。
もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。11:21〜:26
「ユダヤ人(イスラエル)はみな救われる」のです。不思議ですね。異邦人の中から救われる人が満ちた(完成した)時、ユダヤ人は“みな”救われるのです。救われるということは主イエスによる贖いを受け入れることです。彼らはそれまで拒否していたイエシュア(イエス)がメシア(キリスト)であると認め、悔い改めます。
 この時はユダヤ人(イスラエル)にとって大きな嘆きの時となります。
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ゼカリヤ12:10〜14
 私はここのところが忘れられません。聖書は実に印象的に表現していると思いませんか。イスラエルは悲しみに暮れます。なぜなら自分たちは2000年間も拒否し、ののしりあざけっていたあのイエシュアがメシアだったと悟るからです。イスラエル人はみんなそれぞれに悔い、胸をかきむしって嘆くのです。「ああ、我々は神の与えた救い主に何ということをしたのか」「それこそ悪魔の惑わしであると信じてきたことが、実は全く反対だったのだ」。この御言葉の最後の部分は印象的ですね。本当にその嘆きが伝わってきます。
 この時、異邦人の救いは終わります。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。Uコリント6:2
 今は恵みの時、救いの日です。全ての異邦人に開かれていました。しかし、それは閉ざされるときが来るのです。
また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。ヨハネ12:44
 信じるということは、異邦人が選民となることです。それはある一定期間だけです。この貴重な時を大事にしたいものです。