日本にプロテスタントが来てから100年以上になります。しかし、あらゆる伝道の努力にもかかわらずクリスチャン人口は1%に届きません。色々なことが考えられますが原因の一つに考えられることは、クリスチャンが自分の子供をクリスチャンに出来なかったことです。もし、明治以降、クリスチャンが、少なくとも自分の子供に信仰を継承していたら、現在の日本のクリスチャン人口は今の倍以上、数倍になっていたでしょう。これは日本のクリスチャンの問題のかなりな部分になるでしょう。クリスチャンホームに育った私にはその理由の一部が分かります。それは日本のクリスチャンの生真面目さにあります。結論から言うと、全てが反対なのです。熱心に子供を導こうとすればするほど、失敗します。それは信仰というものへの誤解から来ています。なぜでしょうか。そのためには創世記の学びが必要です。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。(中略)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。創世記2:8〜17(口語訳)
有名なエデンの園の物語ですが、この中で「善悪を知る木」が出てきます。その実を取って食べたために罪が起こり、その後のあらゆる問題、騒乱、死に至る悲惨な歴史の元になります。では、なぜ神様はそんな危険なものをエデンに植えたのでしょうか。園の中央には「命の木」だけ植えれば良かったではないですか。その理由が分からないためにクリスチャンは自分の家には「善悪を知る木」を植えないようにするのです。それが問題なのです。
「善悪を知る木」とは人間の自由の象徴です。神の命令、戒めを拒否できる自由です。神様はアダムとエバが自分を拒絶できる自由を与えました。それは「神は愛」だからです。神を信じるということは神を愛することです。信仰とは神との愛の交流なのです。そして愛は、完全に独立し、全く対等で、自由を与えられたもの同士にしか成り立ちません。どんな小さな束縛でもあったら、愛は消滅してしまいます。
これが分からないために多くの悲劇が起こっています。愛していたもの同士(と思っていた)が分かれるとなった時、男が女を殺す、女が自殺する、というようなことがしばしば起こるのは“相手を拒絶する自由”があって愛は成立するということを理解していないからです。これは愛の原則です。神様はこの原則を重んじられたのです。
何と神様は人間を愛の対象と考えたために、人間に全くの自由、対等な立場を与えたのです。それは自分を拒絶することが出来る自由です。
昔、「コレクター」という映画を見たことがあります。正確には覚えていませんが、蝶々をコレクトしていた少年が、大人になり女性をコレクトし始めます。気に入った女性を誘拐してきて地下室に閉じ込め、自分を愛せと強要します。ある女性は拒否し、ある女性は恐怖のあまりに愛するといいますが、いずれの場合も殺されてしまいます。前者は自分の思い通りにならないから、後者は嘘だと見破るからです。そんな束縛された状態で、愛することなど出来るわけはないのです。映画の場合は、ヒロインは何とか助かりコレクターは逮捕されます。
エデンがどんなに快適で、神様との交流がすばらしくとも、“神様しか選べない”ならそれは束縛です。独立し対等の関係ではありません。幼児のような保護の元にあっては大人として自分から選ぶ自由がないからです。ですから神様は「善悪を知る木」をエデンに植えて自分を拒絶できる自由を与えたのです。
「神様を拒絶する自由! とんでもない!」クリスチャンの親からこんな声が聞こえてきます。もう、あなたは自分の子をクリスチャンにすることに失敗しています。愛の原則を破っているからです。
もっとも誤解していただきたくないのは、子供に神様のことを教えるなといっているのではありません。幼いうちに聖書に親しみ、教会に出席させ、賛美と祈りを教えることは推奨されるべきです。しかし、それらは強制ではなく、情報提供に限られるべきです。子供が自分で考え選択できる年齢になった時は子供に任せるべきです。
クリスチャンの子供はいやおうなくキリスト教の環境の中にあります。多くの場合あふれるばかりの情報の中にあります。一方で彼らは全く神についてキリストについて無関心、不信仰の社会に入っていかなければなりません。思春期になったころ、彼らは社会に関心を持ちます。そして少しのぞいてみようとします。熱心なクリスチャンの親はあわてて彼らを引き戻そうとします。それがあまりに急激だったり、強制だったりすると、子供たちは振り子のように社会方面に振り戻ります。多くの牧師や熱心なクリスチャンホームの子がぐれたり不信仰に走ったりするのはこんな場合です。
前に私の教会に真面目で熱心なクリスチャンの教育者の家族が来ました。お父さんもお母さんも教師でした。彼らは10歳ぐらいの子供を礼拝に出席させ、「はい、ちゃんとして。先生のお話をよく聞くのですよ。だらしなくしてはいけません。」といつも忠告し、子供とともに礼拝出席をしていました。その子はとても良い子でした、
親の前では
・・・。彼は、親の目の届かない時には周りの子をいじめる悪がきでした。そのギャップが分からないので、その両親は学校や周りがその子をいじめていると思っていました。事実は逆で、その子が問題だったのです。
子供にしてみれば訳のわからない礼拝説教を長い時間聞かされていることは大変な苦痛だったことでしょう。私がすこし忠告すると、彼らは教会を去って行きました。その子がどうなったか私は心配しています。
私の父は私たちに信仰を強要することはありませんでした。しかし、圧倒的な神への信仰の姿勢は、私たちにとってあまりにも当然で、信仰を無言の内に受け入れていました。家族の中で信仰は口で伝えるものではなく、背中で語るものです。口ばかりで行動が伴っているかどうかは子供たちにはすぐに分かります。だからと言って立派なクリスチャンでなければならないとか、尊敬されるような親でなければならないという意味ではありません。ありのままで良いのです。子供たちは親の弱さや不完全さを理解しています。その上で信仰の力を見出すのです。
エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように
雅歌2:7(口語訳)
エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(新改訳)
この御言葉は信仰というものを見事に表しています。子供をクリスチャンにするための最善のアドバイスと言えるでしょう。愛は荒々しく育てるものではなく忍耐強く、優しく育てるものです。愛が目覚めたいと思う時まで、おのずから起こる時まで、ことさらに呼び起こすことも、さますこともしない、揺り起こしたりかき立てたりしない、それが子供に対するクリスチャンの親のあり方です。
あなたが熱心になればなるほど、子供に何とかして信仰を植えつけようとすればするほど、子供の神への愛を遮断してしまいます。ではどうすれば良いのか。黙っていることです。放っておけば良いのです。子供の中に、神さまへの愛が“おのずから起きるまで”“目覚めたいと思う時まで”“呼び起こしたり”“さましたり”“揺り起こしたり”“かきたてたてたり”しないで下さい。愛はかもしかや雌鹿のように臆病なものなのです。彼らが自分を守る方法はただ警戒心だけなのです。愛もそのように繊細で微妙なものです。
神様はこの愛の特性をご存知です。エデンに植えられた「善悪を知る木」は大変危険なものでした。しかし、人間が神の愛の対象となるためには、どうしても植えなければならない木でした。それは「神は愛である」からです。