一つの質問があります。「イエス様は誰のために死んだのですか?」というものです。この質問には色々な答えがあります。我々のため、教会のため、人類のため、私のため。どれも正しいし、質問自体がどういう回答を求めているか分からないという面もあるでしょう。ここで私が知りたいのは、あなたが本当に個人的な意味で主イエスの十字架の死を信じているかと言うことです。クリスチャンと言われ、自分でもそう信じている人の中に、主の死を漠然と第三者的で客観的な物事として考えている場合があります。
主がゲッセマネで血の汗を流して祈られた祈りは誰のためですか? 十字架の横木に打ち付けられた釘は誰のためですか? テッタラスタイ!「全てが終わった!」という叫びは誰のためですか? 他の誰のものである前に、それは私のため、あなたのためです。それを明確に意識して欲しいのです。
「パッション」と言う映画の中で、十字架の横木の釘の穴に主の手を貫いた釘が血と共にダッと突き抜けるシーンがあります。私はそれを「これは私のためだ!」という感情を衝撃と共に受けました。
弟子のトマスは主イエスが弟子たちに現れた最初の場面に不在でした。そこで「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない。」と言いました。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」ヨハネ20:26〜28
ここで強調されているのは信じるということです。しかし、もう一つの真実、主の手とわき腹の傷跡を思います。「わざを成し終えて」という賛美の中に“わが主を、わが主を、われ御手の傷にて知らん”という一節があります。その傷跡は今もそのままなのでしょう。それは永久に私の救いのための傷跡として主の体にしるされているのです。人類や、教会や、我々のため、である前に、私のために。
もし私が世界中のクリスチャンに「お前などクリスチャンではない」と言われても、私は全く意に介しません。私は主の血の流された十字架の木を抱いて感謝するだけで十分です。それは私のためですから。
主の救いを集団的に客観的に考えることも、一面では正しいのです。しかし、それは「私のため」という意識の後であるべきことです。私はある種の教会が、この集団的、客観的な信仰を強調するために、信徒の一人一人が、個人的、主観的な神との接点を失っている場合があると思います。それは教会というよりカルトに近いものです。
主の死はクリスチャンの一人一人のためのものであって、集団の数的拡大や勢力の拡張のために利用されてはなりません。またあいまいな理解のままで、主との直接的な接点を見失っていてもなりません。
主は十字架の上で、テッタラスタイ!「全てが終わった!」と叫ばれました。それは「お前の罪の支払いは終わったよ」という意味です。神の前でのあなたの罪の負債は、あの日に全て支払われたのです。ローンの返済が終わったのです。もう負債はゼロなのです。教会はその事を教えないで、まだ罪の負債があるかのように脅かしてきました。かつてはカトリックの免罪符のように、今は“清められなければならない”と。まるで永遠に主が十字架についていなければならないかのように。
もう終わったのです。あなたの罪は一度だけ、あの十字架で支払われました。もう何も残っていません。主の御手にはその証拠の傷跡が残っています。主は死なれました。わたしのために、あなたのために。あとは感謝して受け取るだけです。