私たちは神と共に生きています。その生き方によって神を表すことを期待されています。しかし、そう考えると途端に重荷になってしまいますね。面白いもので社会というものは何かの物事に一定のイメージを作っているものです。敬虔なクリスチャン。人格者の牧師さん。ところがそういうイメージに合わないクリスチャンや牧師がいると反発するのです。私はそういう意味で周りを大いに混乱させたものです。しかし、しばらくすると人の内側というものは明らかになってきます。無理をして聖人君子でいてもすぐ馬脚は現れます。私は始めから立派なクリスチャンになることはあきらめました。そうでなく自分の内側にいる主イエスが人々に見えることを期待しました。こんな人間でも救われているんだ。救われた罪人に過ぎないんだ。
会社にいたころ、同じ課にある新興宗教の人がいました。彼は、自分は聖なる教えに従う人間だと公言していました。私はといえばみんなと同じように笑い、ふざけていました。ところがある時、友人の一人がこんなことを言いました。「○○君は、自分が僕たちと違うと言っているが、僕たちと同じだ。小石君は僕たちと同じことをしているが、僕たちとは違う。」彼は他の課から移ってきた時に、私のいる課が他と違うと思ったそうです。しばらくするうちに、その原因は「君だった。」と言いました。私は別にうぬぼれて言うのではありません。本当に彼はそう言ったのです。そしてそれは私の内にいる主イエスが現れていたのでしょう。別に大したことをしていたのではないのです。ただありのままにいただけです。無理しないで駄目は駄目なりに自然にしていれば良いのです。
私は、クリスチャンは最高の紳士であり最高の淑女であると思っています。私は王侯貴族の中に入って行ってもなんら恐れません。私は神の僕で神に愛されている者だからです。就職の時などに良くコネという言葉を使います。私は、クリスチャンは最高のコネを持っているのだと思っています。神様というコネです。
人間は器なのです。そこに何を入れるか、何を盛るかでその人の価値は決まります。器が貴いのではなく中身が貴いのです。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。Uコリント4:7
この土の器という言葉はかわらけ、釉薬をかけていない素焼きの器です。壊れやすい粗末な器です。日本の料理では器も大事な要素で、中には中身より器が大事という場合もありますが、一般的には器は何かを入れるか盛るかの道具です。何も器ががんばる必要はないでしょう。
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。Uテモテ2:20
器には使用目的で形や色が違います。あなたはあなたの形と色で神を入れることが出来ます。人の真似をすることはないのです。
陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。ローマ9:2〜24
神が創った器がその目的以外のものを入れたり盛ったりするとき、それは神の「怒りの器」となります。しかし、私たちは「あわれみの器」です。神は選ばれた器に御自身の栄光と富を盛って表そうとされます。その際、器は何もしなくて良いのです。ただ、ありのまま。成されるままでいれば良いのです。