日本の花は色彩が淡く、強烈な原色の色の多い外国の花と違います。アジサイなど日本の原産なのに外国で育てられると、きつい色になるのは不思議です。元々、花の色というものは紫外線を防ぐのが目的で、紫外線のきつい地方ほどあざやかになるのです。ですから砂漠地方の花は原色の濃い色をしています。
そのような自然に包まれた日本人の感性が、あいまいでやさしいのも当然なのかもしれません。日本ではあまり個性を強調しない生き方が美徳とされます。最近、KYという言葉が流行りました。空気(Kuuki)が読めない(Yomenai)というローマ字の頭文字だそうです。私はこれを聞いた時、日本人って変わらないなと思いました。その場の空気にあわせなければならないという発想が日本人的なのです。もちろん外国にもこのような考え方はあるのですが、個性を尊ぶという点は外国の方が多いと思います。
私は子供の時からKYでした。その場の空気に合わせられないのではなく合わせようとも思わなかったのです。そのためにいつも周囲と浮き上がり恥をかいてきました。しかし、それはそれで場合によっては長所ともなると思っています。
私は欧米に最近広まっているサタン礼拝について知っています。サタン礼拝は日本人には出来ないと思います。サタン礼拝とは神を知っていて、あえて否定するところから始まります。だから元々神のいない日本人には出来ないのです。サタン礼拝は明確に聖書の神を知っていながら反逆することで邪悪さを増します。
日本の宗教は神か悪魔か、白か黒かという対立がありません。すべてがあいまいで、まあまあ何でも良いじゃあないかと“丸く治め”ます。「そこが美徳なのだ、欧米のように宗教から来る対立によって抜き差しならない憎しみ、抗争が起こるではないか」という論調が日本ではありますが、それは違います。宗教から来る対立は本来宗教の目指すところをサタンが利用してゆがめているのです。
日本は灰色の国です。白でもなく黒でもなく。淡く、密やかで、光も影もなく、何となく分かっているようで、実は分かっていない。問題は光が淡いということです。真の光がないと人間の霊は飢え渇き、あえぎます。これで良いのか、これで良いのだろうか。元々人間の霊は光を求めているからです。精神は騙せても、霊は騙されません。霊は常に真実を求めているからです。日本人はいつも不確かな生の中で、これで良いのだろうか、これで良いのだろうかと自問自答しながら周りの空気と共に生きています。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ヨハネ1:1〜4(口語訳)
聖書はこの世を闇と表現します。日本人は薄暗いと考えます。聖書の光はあざやかですが日本の光は薄明かりです。こういう国に、光か闇か、白か黒か、善か悪か、と迫ることの難しさ。あいまいで中間色を良しとするこの国で二者択一を迫る空しさを感じています。
しかし、いつか人間は一つの道を選ばなければならないのです。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。マタイ6:24
この場合は神と富ですが、神とサタンでも同じことです。私たちはどちらかに立たなければならないのです。ただ白黒はっきりしている国々の人々のどぎつさ、あさましさを見ると、日本人の慎ましさ、柔らかさも良いなと思います。さてどうしようか。
この問題は、間もなく解決するでしょう。時代は終末に向かっています。終末においてはサタンが一時的に世界を制覇します。その時は、あいまいさも、慎ましさも、柔らかさも通用しません。サタンは強引に世界を導くでしょう。美徳は消滅し、偽りと、破壊が世界を覆うでしょう。しかし、その後に、もっと堅固で永遠に続く光の世界が現れます。雲は晴れて光は満ち、灰色の国はなくなります。ただ、日本人の美しい面はそれなりの評価を得るでしょう。
かつてフランシスコ・ザビエルたちは、日本人の礼儀正しさ、秩序的な所、柔和さを見て「この国にはかつてキリスト教が来たことがあるに違いありません」とバチカンに報告しています。間もなく薄明は鮮光に、曖昧さは鮮明に、美徳は一層輝きを増すことでしょう。灰色の国は光の国となるでしょう。