そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
これはアブラハムに現れた3人の御使の中の、恐らくは受肉(人間となること)前の主イエスが言われた言葉です。ソドムとゴモラは罪に満ちていました。神様はその事を実際に調べるために御使いを遣わし、御子だけが残ってアブラハムに話されたのでした。
先日、最近報道される幼児の虐待を知るに付けても、私はこの御言葉を思い出さないではいられません。この国はソドムとゴモラのようになっているではありませんか。不信仰ははびこり、気の向くままに自分の欲望のままに生き、愛らしい幼子さえ平気で、捨てる、暴力を振るう、殺す。神様はすでに、この国に御使いを送っているのではないでしょうか。
夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」エレミヤ哀歌2:19
乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。4:4
紀元前586年、エルサレムがバビロンに包囲され、飢餓がエルサレムを覆いました。エレミヤはその事を預言し、警告していたのですが誰も聞きませんでした。そしてエレミヤの預言どおりになりました。いつも最大の犠牲者は最も弱いものです。
しかし、今、日本は豊かで、飢餓どころかダイエットに悩んでいる状態です。その中で、飢えて死ぬ幼子があり、パンを裂いて彼らにやるものも居ません。これほど罪深いことがあるでしょうか。これはあの幼児二人を餓死させた若い母親だけの問題ではないような気がします。日本全体が狂っています。
神様はこの国をいつまでこのまま許されるでしょうか。幼子たちの叫びをいつまで放置されるでしょうか。私はあまり遠くないと思います。
主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」ヨナ4:10〜11
ヨナが邪悪な町ニネベを神様が滅ぼさないことに腹を立てて文句を言った時、神様はこの様に答えられています。この中の「右も左もわきまえない」というのは幼児のことだと言われます。
また、イエスさまも幼児を慈しみました。
イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。ルカ18:15〜16
幼子は美しいものです。ある時、スーパーの入り口にいた可愛い女の子に微笑みかけると天使のような笑顔で答えてくれました。感動しました。幼子は愛によって成長します。愛されなければ健全な成長は出来ません。それが虐待されたり、無視されたり、ついには殺されるのを見るのはつらいことです。幼子には神からの特別な天使が遣わされていると昔の人は思っていました。私は虐待されて死んだ幼子はダイレクトに神様の元に引き上げられ慰めと癒しを受けると信じています。
日曜学校をやっていたとき、幼子に「神様はね」と言うと何の抵抗も無く、素直に信じることに感動したことがあります。水族館に行くと、洞窟に住んでいて目がない魚がいます。しかし、彼らも生まれた時は目があるのです。それが成長するにつれて目は退化していきます。人間も同じように生まれた時は神様を知る能力があるのに、成長するにつれて、その能力は退化していくかのようです。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。マタイ11:25
聖書は不思議なことを言っています。
あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。詩篇8:2
この御言葉の意味は私には判りませんが、いつか何かのことで悟ることを願っています。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」マルコ9:37
幼子を受け入れることは主イエスを受け入れることなのです。では幼子を虐待することはどうなるのでしょうか。憤り、自己満足、エゴ、残虐な心、無慈悲な心が幼子を虐待するのです。ますます、そんな世界が広がっていくように感じます。その意味でも「主イエスよ、来たりませ!」と叫びたいですね。一人の幼子も虐待を受けることの無いように祈りましょう。