キリスト教では罪という言葉が頻繁に出てきます。これは日本語では十分に説明できない言葉です。良く原罪と言われますが、それだけではやはり不十分な気がします。
罪の源は高慢です。天使長ヘレル(ラテン語でルシファー)がサタンになったのは高慢の故でした。次の御言葉はバビロンの王についてものですが、どう考えても人間のことではなくサタンのことと思われます。
暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』イザヤ14:12〜14
また次の御言葉も、ツロの王について書かれているのですが、途中から天上界のことになりサタンの誕生について書かれているとしか思われません。ちょっと長いですが引用します。
「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたは自分の心を神の心のようにみなした。それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真中で、刺し殺される者の死を遂げる。それでもあなたは、自分を殺す者の前で、『私は神だ。』と言うのか。あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。 あなたは異邦人の手によって割礼を受けていない者の死を遂げる。わたしがこれを語ったからだ。――神である主の御告げ。――」次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。 あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。 国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」エゼキエル28:2〜19
こうして罪の源が高慢からだということが分かります。ルシファーは神のようになろうとしたのです。アダムとエバが誘惑された言葉に注目してください。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。創世記3:5
ここにもやはり「神のようになり」という言葉があります。「善悪を知る」と言う言葉は「奥義を知る」と言う意味で英語ではgnosis(日本語ではグノーシス 英語ではノシスと発音する)と言われています。自分も含めて、人間は何と高慢なのだろうと思います。最善のクリスチャンでもこの高慢、高ぶりの誘惑から逃れることは非常に困難なことです。
高慢の反対は謙遜です。信仰とは神の前にへりくだることに他なりません。イエス様は謙遜を信仰と認めています。皮肉なことにこの典型的な例は異邦人でした。一人はローマ軍のセンチュリオン(百人隊長)でした。
イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」マタイ8:5-12
もう一人はカナンの女(ギリシャ系とも言われる)でした。
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。マタイ15:22〜28
神に喜ばれる信仰は、神の前にへりくだり、自分を「小犬」とさえなぞらえる姿勢なのです。この二人は共に、イエス様が驚かれるほど立派な信仰だったのですが、それは謙遜でした。謙遜はイエス様の性質、高慢はサタンの性質です。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。マタイ11:29
高慢は罪をはらみ、罪は恐るべき勢いで人間を襲います。罪の結果は滅びであり、永遠に神と離別する道を提供します。それは今さら語る必要が無いほど日常の中に見られます。
人が有名になりたいと思う時、サタンは喜んで招き入れてくれます。アメリカ発の有名人はほとんどがサタンに魂を売った人々です。今一番有名なサタニスト、レデイ・ガガはその衣装やパフォーマンスでサタンを現すことに熱心ですが、彼女は罪に身を売って名声と富を得たのです。
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彼女以前にも沢山の人々がいます。しかし、これらの馬鹿げたパフォーマンスは逆に罪の性質を表すので、注意深い人々は何が罪で何が神に喜ばれることか分かるのです。
神の前にへりくだることそれが神に喜ばれ、神の御子を驚かせる信仰なのです。謙遜は真のクリスチャンの性質であるのです。