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その名は不思議

 サムソンの父となるマノアは、妻に現れた「主の使い」に対して名前を尋ねます。
そこで、マノアは主の使いに言った。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです。」 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」士師記13:17〜18
 この「主の使い」は受肉(人となる)前の主イエスと考えられています。この方については預言者イザヤはこう書いています。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。イザヤ9:8
 神の子の名前の一つは「不思議」なのです。それも無理ありません。神のことを人間の言葉で表現することは本来不可能なのですから。
 宇宙についても、まだ人間はほとんど判っていません。人間が感覚によって捕えることが出来る物質は宇宙全体の約4%に過ぎないと言われています。あとの96%はダークマター(暗黒物質)およびダークエネルギーという仮説的な力です。 そんなに限られた知識しかないのに、まるで全てを知っているかのように信仰を軽んじることは愚かなことです。「神は死んだ」と宣言し、超人思想を歌ったニーチェはその思想にふさわしく晩年は狂人として生きました。
 神を見るためには、信仰という能力を身につけなければなりません。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。ヘブル11:1(口語訳)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Uコリント4:18
 信仰とは目に見えないものを見えるかのように行動する態度です。ダークマターは目に見えないし、人間の感覚では把握できないものですが、理論的にどうしても無くてはならないものです。そんなことは判るのに、神は信じられないのはおかしなことです。
 神の御子は見えない世界に居られましたが、見える形で現れてくださいました。極力、ご自身の全能者である本質を捨てて、人間のように生まれてくださったのです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。ピリピ2:6〜11
 こんなことは人間の知性や理性の限界を越えています。それで人間には不思議と思う以外にはないのです。
 主イエスは人間としての生活の中で多くの奇跡を行っています。それはご自身の本来の能力から言えば奇跡でもなんでもなく当たり前のことでした。むしろ極々、控えめに、力のほんのわずかなものを表されたに過ぎません。主イエスにとって奇跡を行うことよりも行わないでいるほうが難しかったことでしょう。
 主イエスはご自身の行った奇跡が神としての能力からではなく、人間にもできることの範囲なのだということを語っておられます。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネ14:12
 主イエスの力はこの宇宙を造ることさえできるものです。
主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、
わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。箴言8:22〜31
 神様が世界を創造されたとき、いわば現場監督のように実際の采配を振るったのは主イエスです。この創造の御業の4%しかまだ人間には見えないのです。主イエスは全てを知っておられます。
 私たちは福音書の中で主イエスを見るとき、まるでそれこそ「その有様は人と異なら」ないように見えます。しかし、ちょっとだけ主イエスの本性(ほんせい)を知るとき、驚きと感動を覚えます。その名は「不思議」なのです。