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もし神がいないと思ったら

 ドイツの政治家で、文筆家であったカール・ヒルテイは「もし私が、神がいないと思ったら、神を作り出して拝むだろう」と書いています。
 もし、私が、神がいないと思ったら、私はその空しさに耐えられないでしょう。人生は全く無意味です。私のこの精妙な体は単なるごみくずの集合になるでしょう。宇宙は偶然に生まれたガラクタの山でしょうか。花々は意味も無く咲くのでしょうか。私は、なぜ生きるのかと毎日毎日考えるでしょう。そして自殺するでしょう。どうせ、死ぬんですから。
 この世の人々は、どう考えているのでしょうか。
 今の人はほとんど知りませんが、明治36年、華厳の滝に身を投じて死んだと言われている、当時の第一高等学校(今の東大)生、18歳の藤村操が傍らの木を削って書いた詩があります。(当時は非常に有名でした。)
 厳頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て比大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。
  岩の上で思う
天地は悠々と偉大で、歴史は広遠である
1,5mの小柄な体でそれを計ろうと思う
ハムレットの親友ホレーショの哲学はどれほどの権威があるものか
天地の真相は一言で言える。それは「不可解」
私はこのことを恨み、悩んでついに死を決意した
この岩の上に立って、胸中に何の不安もない
初めて知った、大いなる悲観は、大いなる楽観に一致すると
 不可解。それがこの真面目な学生の人生への答えでした。そして、それは現在もほとんどの人の思いでしょう。人間はあまりにも空虚で、さらに自分が空虚であると知ることが出来る知性を持っているという矛盾の中に生きています。人間が物質だけならまだ我慢できるとしても、知性があるので困るのです。この知性もどこから来たのでしょうか。そして、この究極の困惑が、ただ「神」という一言で単純に解決されることがいやなのです。
 神の存在を認めないのは人間だけです。サタンも悪霊もその存在を知っています。彼らは神に対して反抗しているのです。さらにそれが一時的なもので最後は滅ぼされることも知っています。それなら神に服従したら良さそうなものですが、不思議なことに、それが出来ないのです。だから人間だけが無神論者となることが出来るのです。
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ローマ1:20〜23
 人間は神が見えないので、その思いは空しくなり、その空虚さに耐えられないので神々を作り出します。私の周りの隣人を見ていてもどうして生きてゆけるのだろうかと思います。気がついたら生きていた、死ぬわけにも行かないから生きている。何か意味があるのだろうと思いながら・・・。そしてとりあえず何かを拝んでいる。
 前にある青年が書いた本をもらったことがあります。その題名は「南無陀可判羅無経」というものでした。「なんだかわからん経」だそうです。真面目で正直な告白でしょう。ある知的な芸能人のお父さんは僧侶だったそうですが「軽薄に生きろ」と教えたそうです。真剣に考えると自殺するしかないからでしょうか。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」マタイ4:4(口語訳)
 幼子にとって「愛される」ことが食物と同じように大切なように、大人も衣食住以外に「神を知る知識」が必要なのです。その代わりにレジャーに、宗教に、趣味に、何かを求めてさ迷います。「人は神に出会うまではさ迷い続ける」とアウグスチヌスは言っていますが、神に達することが出来た人は幸いですが、そうでない人は悲惨です。死に面して、「ああ、何だったのだろう私の人生は、そしてどこに行くのか」と思うか、「ああ、神と共に行き、神の国に行くのだ」と思う人生はなんと言う違いでしょうか。
 神と共に生きたダビデはこう歌っています。
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。詩篇27:4
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。詩篇104
 生きることと死の後の命について主イエスは次のように言われています。
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネ11:25〜26
 これは普通の人には、それこそ何がなんだか判らない言葉でしょう。しかし、信仰という解答を持った者にとっては、歓喜の言葉です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。ローマ1:17
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。14:8
 信仰なら何でもいいわけではありません。いわしの頭を信じることと、天地万物の創造者を信じることは全く違います。その方と、その神の子が自分のために命を捨ててくださった事実を受け入れる信仰が本当の信仰なのです。この場合の「信仰」は英語で言うならThe faith と限定されます。それは、主イエスの次の言葉を信じることなのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」ヨハネ6:51
 クリスチャンといえば道徳的な高い理想を追い求めるご苦労な人々というのが一般の考え方ですが、それは全く違います。キリスト教の救いは全く他力本願で自分の努力は何の価値もありません。むしろ自分の努力に絶望した人だけが求める資格があるのです。
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」マルコ2:17
 イエス・キリストは、正しい人ではなく、罪人のために! 来たのです! 
主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。エゼキエル18:23
 そういうと「私はそんな悪人ではない」という人がいます。あなたは神の目、神の清さ、神の正しさから見てもそう言えますか? 誰一人神の前に正しい人はいないのです。それを認めるか認めないかに掛かっています。そこに神の前で喜ばれる謙虚さが必要なのです。
 信仰とは結局、神の前で心からへりくだることなのです。
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。ハバクク2:4