イスラエルはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと神に忠実な指導者によって神の選民として生まれ、成長し、約束の地カナンにやって来ました。実に波乱万丈、小説よりも奇なりです。ヨシュアは死に面して、神の言葉を伝えます。その姿は淡々として神への信仰に一辺の疑いもなく、澄み切った美しさがあります。信仰者の死とはこうあるべきだと言う典型と言えるでしょう。
24:1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、 24:2 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。 24:3 わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。 24:4 ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。
24:5 それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。
アブラハムの父テラは偶像礼拝者でした。日本語の寺というのが同じ意味なのも面白いですね。その子アブラハムが真の神の総代理店のようになるのも不思議といえば不思議です。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信仰の父となったのです。アブラハムは人類史の中で最も偉大な人物と言えるでしょう。それはただ「子を与える」という約束を固く信じたことです。もちろん神との親しい交わりの中から生まれてきた信仰ではあるのです。しかし、信仰とは何と単純で偉大なものでしょうか。
24:6 わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。
24:7 あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。
エジプトは当時、世界最大最強の国でした。今のアメリカなど比較になりません。王のファラオは神として崇められていました。その国を敵に回して、勝利し、脱出したのです。日本がロシアに勝った日露戦争の数百倍、数千倍の出来事です。当時の世界でどれほど話題となり脅威となったのか、そしてイスラエルの神が恐れられたか想像に硬くありません。
24:8 それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。 24:9 それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。 24:10 わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。 24:11 あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。 24:12 わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。
24:13 わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』
ここにわざわざバラクとバラムの名が出てくるところを見ると、それは相当重大なことだったのでしょう。何となく、今から出てくるアンチ・キリスト、黙示録の666の獣を連想します。バラムが表面的には預言者のような働きをしていることに注意しましょう。
また「くまばち」は本当に「くまんばち」だったのか、疑問は残ります。ここまでがヨシュアが神の言葉として伝えた預言です。(預言とは必ずしも未来を語る予言のことではなく、神の言葉を委託されることです)。
■くまばち 〈ヘ〉ツィルアー.すずめばち科の大型の蜂で,パレスチナに多くいる.聖書では,次の3箇所に出てくる.出23:28「くまばちをあなたの先に遣わそう」,申7:20「主はまた,くまばちを彼らのうちに送り……あなたの前から滅ぼされる」,ヨシ24:12「あなたがたの前にくまばちを送ったので,くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った」.共に,約束の地の原住民をイスラエルの前から追い払われる神の奇蹟的干渉として言及されている.神が実際にくまばちを用いられたかどうかについてはいろいろ意見がある.出23:28の「くまばち」は,その前節で「わたしは,わたしへの恐れをあなたの先に遣わし」と言われていることから,「わたしへの恐れ」の象徴的表現であると解釈することもできる.
24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。 24:15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
最後にヨシュアは短く自分の信仰を語ります。「あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい」これが信仰と言うものの最も簡潔な表現です。そしてその後に「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」と続けています。信仰が全く自発的なものであることを保障しています。イスラム教や(後のユダヤ教)のように、生まれたらイスラム教徒(ユダヤ教徒)であり、生涯、強制的に信じなければならないものではないのです。ここに聖書の神の特徴があります。
そしてヨシュア記で最も印象的な言葉が続きます。「私と私の家とは、主に仕える」。自発的なものであるからこそ、この信仰には価値があるのです。信仰とは神への愛です。
エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。雅歌2:7
クリスチャンの親が子供に信仰を伝えたいとき、しばしば揺り起こしたり、かきたてたりして失敗します。目覚めたいと思う時まで、じっと我慢も必要です。親が心から信じ、神を喜んでいる姿を見せれば子供は自然に信仰を持ちます。
24:16 すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。 24:17 私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。 24:18 主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」
ここまでは彼らも偉大な指導者によって信仰を持ち続けられると思っていました。しかし、モーセの後継者がヨシュアだったようには、ヨシュアの後継者は居ませんでした。それはこの後の士師記を見れば分かります。サムエルが出てくるまでイスラエルはよろめきつつ歩むのです。ヨシュアはその事を予測していました。
24:19 すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。 24:20 もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」 24:21 それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」
民は必死にヨシュアに誓います。
24:22 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です。」と言った。 24:23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」 24:24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」 24:25 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。 24:26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。
24:27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」 24:28 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。 24:29 これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。 24:30 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。
ヨシュアは110歳で死にました。荒野の過酷な環境では非常に高齢だったわけで、カレブとともに主への忠実な証人として生きながらえていました。
*聖書におけるシェケム.シェケムが,聖書に最初に登場するのは,創12:6以下である.アブラハムは家族を伴い,所持品を持ってカランを去り,カナンへ旅立った.アブラハムの最初の滞在地は,シェケムがその近くにあった,モレの樫の木のある場所であった.カナン人たちはまだそこにいたが,主なる神はアブラハムに現れ,契約の約束を更新された.アブラハムはそこに祭壇を築き,そこから32キロ南のベテルに移動した.
後にヤコブは,パダン・アラムからの帰途シェケムの前で宿営し,ここでハモルの息子たちから一区画の土地を買い,祭壇を築き,エル・エロヘ・イスラエルと名づけた(創33:18‐20).ヒビ人ハモルの子シェケムは,ヤコブの娘ディナを辱めた(創34:2).これに対して,シメオンとレビは復讐をした(創34:25‐29).
ヤコブが,彼の家族が持っていた外国の神々を樫の木の下に隠したのは,シェケムの近くであった(創35:4).後にヤコブの子供たちがシェケムの近くで羊の群を飼っていた時,ヨセフが彼らを捜しに来た(創37:12以下).ヤコブは,シェケムの人々と友好関係を保つことを望んでいたと思われる(創34:30,49:5‐7).ヨセフの遺体はエジプトから運び出され,シェケムに葬られたと記録されている(ヨシ24:32.使7:16では「シケム」).
イスラエルのカナン入国後,ヨシュアは民をシェケムに召集し(ヨシ24:1以下),厳粛な集会を開いた.ユーフラテス川の彼方におけるイスラエルの民の起源から,カナン征服に至るまでの民の歴史を回顧し,徹底的に主に仕えるよう民に要求し,神とイスラエルの契約のあかしとして,主の聖所にある樫の木の下に大きな石を立てた(ヨシ24:25‐27).シェケムは,エフライムとマナセの境界としての位置を占め(ヨシ17:7),逃れの町(ヨシ20:7,21:21),レビ人の町としてケハテの子たちに与えられた(T歴6:67)
24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。 24:32 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。 24:33 アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。
最後の言葉は印象的ですね。「〜長老たちの生きている間は、主に仕えていた」。冷厳な目が感じられます。悲しいことに、ここからイスラエルは始まりましたが、堕落も始まったのです。ヨセフの骨というのはミイラのことです。