ホームページ・メッセージ110710        小 石  泉

ヨシュア記  No. W マナと主の軍の将

5:1 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。 5:2 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」 5:3 そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。 5:4 ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。 5:5 その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。
 やはりカナンの住民はイスラエルのことで恐怖に襲われていたのです。
 割礼と言うのは男の性器の余分な皮を切り取る手術です。これは全てのイスラエル人の男子が生まれたとき当然受けているべき儀式だったのですが、なぜかされてなかったのです。そこで改めて全ての男たちに施しました。しかし、これは厳しいものだったはずです。本来、割礼はまだ痛みも何も判らない、生まれて8日目の赤ちゃんに行われるのですが、成人してからだと非常な痛みを伴います。あのヤコブの子供のシメオンとレビが妹のデナのことでシケムの町のハモルの一族を皆殺しにしたのも、割礼を受けるように勧め、その痛みに耐えている男たちを殺したことでも判ります。
 神が荒野でこのことを強く言わなかったのは、この激痛によって改めて神との契約の重さを実感させるためだったのではないかと、私は推測します。
 火打石は黒曜石などのガラス質の石を砕いたもので、叩いて火をおこすのですが、割ると鋭い刃が出来ます。エリコの辺りに行くと今でもこの石が一杯あります。日本でも産出します。
5:6 イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。 5:7 主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。 5:8 民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。
 ヨシュアとカレブを除く全員が荒野で死にました。彼らの不信仰の故に。厳しいですね。割礼の傷が癒えるまでは1ヶ月ほどかかったと思われます。
5:9 すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。 5:10 イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。 5:11 過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。 5:12 彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。
 ここに重要な記述があります。この地の産物を食べた後でマナが降らなくなったことです。これはエリコ周辺の住民たちが逃げ出した後に残された小麦などだったのではないかと言われています。やはり相当豊かな土地だったのでしょう。
5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」 5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」 5:15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
 ここに現れた人物はイエス様の受肉前のお姿の一つでしょう。この人がヨシュアに靴を脱ぐように命じ、彼の礼拝を受け入れていることから、この人が主御自信だったことがわかります。御使いは礼拝されることを断ります。彼らも被造物だからです。
 旧約聖書では、主は色々なお姿で現れました。アブラハムには御使いの一人として。ヤコブには相撲を取るために。モーセにはシナイ山の静かな声として。ヨシュアには主の軍の将として。
 ヨシュアの質問は「あなたは私たちの味方ですか、敵ですか」でした。この人は「いや違う」と言われました。「私は主の軍の将」としてきたのだ。つまり「この戦いはあなた方のものである前に私のものだ、私が戦うのだ」と言う意味です。彼は抜き身の剣を持っていました。戦いの前に色々思いあぐねていたヨシュアの前に、すでに戦闘体制に入った主とその万軍がいたのです。エリシャを取り巻いていた無数の軍勢のようです。