ホームページ・メッセージ110626        小 石  泉

シャローム

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。ヨハネ14:1
 チェルノブイリの避難地域に止まって農業を続けているクリスチャンがいるそうです。そこは高い放射線が検出されるところなのですが、彼の農場からは放射線は全く検出されず、作物は高品質のものが育つそうです。それこそ主の守りだと思いました。私たちは心を騒がせないでいましょう。神を信じ、キリストを信じていましょう。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。14:18
 私たちは孤児ではありません。いつも主の守りがあります。孫を見ていると、いつもお父さんとお母さんを求めています。それは誰も代わることの出来ない位置です。私たちも主をこの様に求めているだろうかと思います。
神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。詩篇63:1
 ダビデはこの様に歌いました。これほどまでに主を求めるなら主は答えずにはいれないでしょう。放射線もプルトニウムもこのような叫びには勝てないのです。
 だからと言って、私たちが何もしないでただ助けを待つだけで良いわけではありません。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。マタイ6:26
 空の鳥は蒔くことも刈り入れる事もこともしませんが、彼らなりに一生懸命生きています。信仰は怠惰や愚かではないのです。懸命に普通の人のする努力はしなければなりません。信仰の故に病気になっても子供を医者に診せず、死に至った伝道者を知っています。アメリカでも幼児の死亡率が一番高いのはそういう信仰を強調する人々の間だそうです。そんなことは神様が求めておられることではありません。信仰は常識を超えたものですが非常識ではないのです。成すべきことは成さなければなりません。仕事をして賃金を得て、家族を養うのは当然のことです。ただし献身者の場合は別の法則がありますが。
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20:19
 ここで主が「平安があるように」と言われたのは、ユダヤ人の間で普通の挨拶「シャローム」だそうです。文字通り訳せば「平安があるように」なのですが「おはよう」「今日は」「さようなら」と言う意味で使うのだそうです。しかし、やはりシャロームという響きは美しいですね。ソロモンはシャロモン、平安の子であり、エルサレムはエルシャローム、(エルシャライムとも言っていた)神の平安です。もっとも実際には平安な都市ではなかったのですが。主イエスが再臨されるとき本当の平安の都市になるでしょう。
 主は今日もあなたに来られて、言われますよ「シャローム」。