ホームページ・メッセージ110327        小 石  泉

おまけの雀でも

 30000人を越す死者、行方不明者。未曾有の大災害。日本中が震えました。数百数千の遺体を見たら、人はどう感じるのでしょうか。あまりにもはかなく空しい。神様はどうしてこのような悲劇を許されるのでしょうか。
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。マタイ10:29 〜31
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。ルカ12:6〜7(口語訳)
 二羽一アサリオン、五羽で二アサリオン。一羽はおまけです。そんな雀でも神様の許し無しには地に落ちることはないのです。まして多くの雀より勝った人間一人の生死も神様の御心の中にあります。それにしても悲惨です。
 この世はかりそめの世界なのでしょうか。昔の日本人はそう思っていました。ですから、この世を浮世と言いました。豊臣秀吉は栄華を極めた晩年に、「露と置き、露と消えにしわが身かな、難波のことは夢のまた夢」と歌ったと言います。難波(大阪)で大いに栄えた私だが結局、露のようにはかないかった、と言うのです。
 ソロモンも箴言の冒頭に「空の空、一切は空である」と言っていますが、人間の側から見るならば、そうなるでしょう。しかし、神様の目か見るとそうではないのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。イザヤ43:4
だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」同43:1
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。同49:18
 私たちが生きていると言うことははかなく空しいけれど、神の御手の中にあるとき、価値があり永遠に失われないのです。
 津波で流され溺れ死んだ方々のどれだけが本当の神様を知っていたでしょうか。永遠の命を受け取っていたでしょうか。恐らくわずかでしょう。しかし、それでも誰一人、神に忘れられてはいません。少なくとも多くの雀よりは覚えられているのです。そしていつの日か神の前に立ちます。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20:11〜15
 裁かれた、いのちの書に名のしるされていない者はみな火の池に投げ込まれたとあります。恐ろしいですね。けれども、私は愛と慈しみの神が不信仰の故ではなく、何も知らないで死んだ人々まで残酷に扱われるとはどうしても思えないのです。特に私はサタンのことについて多くを学びました、その中で、サタンとその陣営に積極的に嬉々として参加し、神を侮り、嘲り笑い、放縦と殺人と儀式を行う人々を知りました。その時、そんなことは何も知らないで、ただ神に会う機会が無かった人々までが彼らと同じように滅ぼされるとは絶対に信じなれなくなりました。聖書にははっきりとは書かれていませんが何か別の道があるような気がします。キリストの贖いによる救いではなく、哀れみによる許しがあるように思えるのです。それはあの終わりの時に人間が羊と山羊とに分けられるところにもあると思います。あそこで羊と山羊に分けられるのはクリスチャンではありません。もしそうなら十字架の贖いは無意味です。十字架の贖いは絶対であり、もう裁かれえることはないのです。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:17〜18
 ですから、あそこで裁かれるのはクリスチャン以外の人です。クリスチャンは「私の兄弟」の位置にいます。
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
マタイ25:31〜46
 ですから何らかの救いの道は残されていると考えられます。ただはっきりとは書かれていないのです。それは、はっきり書いたらそれからでも間に合うと考える人が出てくるからでしょう。
 いずれにせよ、亡くなられた多くの方々に神の慈しみがありますように祈ります。そしてこの災害に、略奪も暴動も起こさなかった心優しい人々に神の恵みがありますように。