ホームページ・メッセージ110320        小 石  泉

危機と救助

 あまりのことに、言葉を失います。死者、行方不明者はどれほどになるのでしょう。もう埋葬も焼却も間に合わず、どこかで聞いたことがあるように、そのまま町全体を埋めてしまうのでしょうか。私はこの恐ろしい光景を見ながら、日本が享受してきた平和が、いかに日本人を駄目にしていたのか痛感しました。
 本来、人間が生きることには危険が伴うのです。それがあまりにも判っていないと思ってきました。私は第二次世界大戦を覚えています。爆弾の降り注ぐ有様を見てきました。だから日本の人々が平和と安全に慣れきって、精神的に緩みっぱなしであることを心配してきました。本来、人生は恐怖と危険と隣り合わせなのです。そこから神様への救助を求める祈りが始まるのです。
あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。ヨナ2:3
 預言者ヨナは神様に逆らってニネベに行かないで反対方向のタルシシに向かいました。そして嵐に会い海に投げ込まれる羽目になりました。海で死んでも敵国ニネベに行きたくなかったのです。しかし、海で溺死する以上に恐ろしい魚の腹の中に入ることになりました。彼はこう続けています。
私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。2:4〜10
 この地震の前まで、日本のテレビはお笑い芸人のオンパレードでした。どの局を開いてもほとんどお笑いでした。軽薄で馬鹿馬鹿しい番組ばかりでした。しかし、これほどの悲劇の前にお笑いは出る幕はありません。もっとも人間には笑いは必要です。しかし、あまりにも度が過ぎていました。
 私は今回の惨劇が日本人に、人生とは何か、神はいるのか。と言う根源的な問題を考える機会を与えるように祈っています。
 それにしても、このような惨劇の裏にはサタンの働きがあるのです。サタンは神様の創造の冠である人間を滅ぼし絶やすことを無上の喜びとするからです。そして、どうして神様はこのような悲劇を許されたかという疑問が残ります。素朴な東北地方があのソドムとゴモラのように邪悪な町々だったとも思えませんし、それなら東京や大阪の方がふさわしいでしょう。私には判りません。しかし、日本人がこれを機会に“人間の最も大切なもの”を知ることを願います。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11
 人間とは永遠を思う生物です。猿もチンパンジーも持っていません。刹那的な快楽や笑いで永遠を思うことが無くなっていました。あの永 六輔という人のお父さんは僧職にあった人ですが息子に「軽薄に生きよ」と教えていたそうです。それも判ります。それは真剣に考えると何もかも判らなくなるからでしょう。真理を知らなければ生きることは空しいからです。しかし、このような悲劇に会うとき人は真剣になります。ごまかして生きることは出来なくなるからです。
 こういう時、神の言葉が輝いて見えます。
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。詩篇23:1〜6
 どんなことがあろうとも、御言葉こそ真実です。永遠の道しるべです。
そして主はいつでも変わらない私たちの守りです。
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。ヘブル13:8