ホームページ・メッセージ110306 小 石 泉
病と人
私事ながらとうとう絶対にいやだと思っていた人工透析の身となりました。そんな風にまでして生きたくないと思っていたのですが、毎日、船酔いと喘息のような症状に悩まされるとしょうがないかと思うようになりました。今は透析技術も発達していて5年も10年も生きる人もあるそうで、そう易々と神様は天国に入れてくれないようです。ただ外国に行けなくなるのが残念です。中国の神学校に行って教えたいと思っていたので。
それにしても病院に行って思うのは、何とこの世には病人が多いのだろうということです。私は改めてなぜ病気があるのだろうと思いました。ストレス、不養生、遺伝、感染。沢山の原因が考えられます。それでもなぜ病気そのものを神様は人間に許されたのでしょうか。レビ記には神様が病気をのろいとして送るという言葉があります。
もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行なわないなら、また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行なわず、わたしの契約を破るなら、わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。6:14〜16
これは不従順に対するのろいです。しかし、最善の人にも病気はあります。その典型的な例はヨブです。ヨブは次のような人でした。
ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。1:1
それにもかかわらずヨブは極限までの苦しみを経験します。それを通して、ヨブは神の前に完全であることの要求の高さを知ります。そして、人間のはかなさ、空しさを悟ります。人間は皆、アベルなのです。はかなく、空しいものです。普段は何でも出来ると思っていても実際はささやかで弱いものなのです。その典型的な例はヘロデ・アンテパスです。
さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。使徒12:20〜:23
ツロとシドンの人々の、これは「神の声だ。人間の声ではない。」という最大限のおべっかの言葉の直後に、何とヘロデ・アンテパスは“虫にかまれて”死んだのです。なんと言う皮肉。どんなに虚勢を張っていても、王としての威厳を保っているつもりでも、所詮人は人、虚しくはなかい存在です。
ところで、私たちは、普通は、自分が虚しくはかないものだとは認めたくないものです。自分が全く無価値であると思うことは出来ないものです。しかし、真に偉大な人々は自分がはかなく虚しく無価値であると悟っていました。あのモーセはこう言っています。
主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。
山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、
とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
あなたは人を大水のように流れ去らせられます。
彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。詩篇90:1〜7
また、ダビデは詩篇の中に、弱くはかない自分の姿を繰り返し、繰り返し書いています。
サムエル記に出てくる、勇ましく、雄雄しい姿とは似ても似つかぬ姿です。一体、世界の王でこれほど自分の弱さをあからさまに告白した王はいたでしょうか。しかし、だからこそダビデは王の中の王で神に愛された人でした。
人間は自分の存在価値を探し続けるものです。その最たるものはノーベル賞であり、オリンピックの金メダルでしょう。それ自体、人間が向上することですから悪いことではないし、第一、自分が、はかなく、虚しく、無価値であるなどと若い人に要求することは悪であるように思われるかもしれません。しかし、相対的な世界ではなく絶対的な世界では最も善であるのは、自分のはかなさ虚しさ無価値であることを知ることです。
若いころ、神学校のチャペルで祈っていたとき、神様が近づいてこられたのを感じました。私は飛び上がるほどびっくりしました。私は自分が焼けたトタン屋根の上に落ちる一滴の水よりも、秋風に吹き飛ばされる一枚の落ち葉よりも、はかなく空しいと感じました。私は思わず叫びました、「神様、それ以上近づかないでください。私は無くなってしまいます!」それは恐ろしい瞬間でした。
韓国の大教会の牧師先生がこんな話をされたことを忘れることが出来ません。あるときその先生は自分の名刺に何か別の肩書きを入れたいと思いました。何かもっと実業家としての自分を見出したいと思ったのです。それで会社を作り社長となり、大学を作り学長となりました。ところがその時、神様が語られたそうです。「お前は何の価値があるのか。ただ私の哀れみで生きているのではないか。」先生はひどく恥ずかしかったそうです。今でもそのことを覚えておられるかどうかは判りませんが。
昔、精神病院の患者さんと接することがありました。彼らとの話の中で、非常に興味深かったのは、多くの患者さんが「自分は高貴で偉大な家系の出だ」ということでした。天皇家の血筋という人に何人も会いました。首相の親戚にも会いました。中には何とアメリカ大統領の親戚だという人もいました。どう見ても日本人なのに・・・。
彼らに共通しているのは、自分の価値の創造です。何とかして自分の存在価値を認めてほしいのでしょう。むしろ逆なのです。自分の空しさ、はかなさ、無価値であることを認めれば真実の価値は与えられるのに。
病になるとき、人は自分の弱さを悟ります。人はその分だけ神様に近づくことが出来るのです。
このように、はかなく、空しく、無価値なものに対して、神は次のように言われます。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4
そして、御子イエスは私たちのために十字架にお掛かりになり罪の許しと永遠の命を下さったのです。