ホームページ・メッセージ110206        小 石  泉

奇跡と神

 先日ある集会に出席したときのことです。そこで歌われる歌(あえて賛美歌とは呼びません)にひどく違和感を覚えました。
 私は信じる、奇跡は今でもあると…
 どう考えても、この歌が賛美しているのは神様ではなく奇跡ではないのか。その集会では何度も何度もこの歌が歌われました。私はいたたまれなくなって帰りたいと思いました。奇跡やしるしや不思議を求めることと、神を求めることとは微妙ですが大きな違いがあります。それはサタンの巧妙な罠と言えます。
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」 マタイ12:38〜39
 イエス様の時代からしるしや奇跡は人々の関心の的でした。そして、イエス様は多くのしるしや奇跡を行いました。しかし、奇跡のための奇跡を行ったのではなく、御自身が神の子であること、福音の補強のため、そして同情と憐れみの故になさったのであって、アラジンの魔法のランプの精のように、人間の興味や好奇心や利得のために行ったのではありません。
 20世紀にアメリカで多くの奇跡やしるしの伝道が行われました。オーラル・ロバーツ、キャサリン・クールマンなどまるで社会現象とも言うべき巨大な規模で華やかな集会が行われました。そこでは多くの病の癒しや奇跡が起こったと言われています。しかし、キャサリン・クールマンの癒しの追跡調査をした医師団はそのほとんどが事実ではなかったと報告しています。また現在行われているベニー・ヒンなどは東洋の“気功術”を使っていると思われます。無意味に人々を倒したり、笑わせたり、動物のように行動させたりすることは異教や悪魔礼拝の中でよく起こることです。
 フィリップ・ヤンシーという人はこれらの“癒し”の結果、神様に対して失望し、自分の信仰に落胆した人々について語っています。キャサリン・クールマンの集会で「がんが癒された」と証言した人が、数日後に死んだ家族のなげき。これらの人々は病の苦しみ以外に不信仰の烙印を押されたと感じるのです。
 確かに聖書は病の癒しのために祈れとあります。 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。ヤコブ5:14
 しかし、祈ったからといって必ず癒されるものでもありません。パウロは目が悪かったのですが3度も神に祈ったが癒されませんでした。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。Uコリント12:7〜9
 また、次のような言葉もあります。
エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。Uテモテ4;20
 パウロはなぜトロピモが癒されるように祈らなかったのでしょうか。癒しはいつも必ず100%癒されるものではありません。重要な目的のために癒されない場合もあるのです。
 金鉱石は採掘された後、精錬され純度を高めて行きます。ダイヤモンドの原石はそのままでは何の輝きも持ちません。カットされ研磨されてあの輝きを持つのです。私たちを精錬し、研磨するのは苦しみの炉であり悩みの砂です。
 「神様まだなのですか?」そう祈りたいときがあるでしょう。あなたの純度は、あなたの輝きは、まだ十分ではないのです。つらい、苦しい試練はまだ終わらないのです。
 では、癒しやしるしは求めるべきではないのでしょうか。いいえ、求め続けるべきです。私は信徒も無く会堂もなくサポートも無く正に徒手空拳でやってきました。無一文から1億円近い会堂を与えられるまでに、奇跡をたくさん経験しました。しかし、それは奇跡を奇跡として求めたからではなく、必要に迫られ、涙を持って祈ったときに与えられたのです。(この証は「小さな会堂の物語」という小冊子にまとめてあります。)
 ヘンリー・グルーバーという伝道者がいます。神に忠実な謙遜な器です。師の集会ではとんでもない奇跡が起こるそうです。それはあまりにも奇想天外なのでちょっと口外をはばかるぐらいです。しかし、ちゃんとした理由があります。そして、師はそのような奇跡を期待しているのではないのです。淡々と福音を語っているうちに図らずも驚くべき奇跡が起こるのです。私はこういう奇跡は信じます。
 今は終わりの時代です。神様は御子の花嫁である教会を整えるために大きな奇跡を行おうとしているのです。しかし、受け取る側が、あのパリサイ人のように奇跡を手品か魔法のように求めるとき、与えられないでしょう。高ぶることが無いために、純粋で輝きに満ちた教会になるために、苦難もいとわない人々に与えられるでしょう。
 私たちはヨブのような姿勢が必要です。苦しみの中で彼の妻に、こう答えています。
すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。ヨブ2:9〜10
 このような信仰はより高い信仰です。Higher Land、Upper Room に昇るのです。
あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。イザヤ50;10(口語訳)
 サタンは神様の代わりに奇跡を求めるように働いています。巧妙なわなに気をつけてください。神様を小さな妖精のように考えてはなりません。宇宙を創造されたお方はそれ自体が奇跡を越えた方なのです。
 この方があなたを訓練されます。
見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。イザヤ48:10