だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。イザヤ53:1〜12
これは誰のことを書いた文章なのでしょうか。誰でもキリストだというでしょう。しかし、この文章はキリストの誕生の700年前に書かれたものなのです。
イザヤという預言者がこれを書きました。イザヤはキリストの700年前に、まるで見てきた人のようにキリストを書きました。700年前と言えば、今の私たちから考えると鎌倉時代ぐらいの時間です。そのために100年ほど前には、多くの学者がこれはイエスキリストを見た人が書いたもので、AD100年ぐらいのものだろうと言いました。彼らはイザヤ書をいくつもに分け、第一イザヤ、第二イザヤなどと得意げに分割していたのです。ところが1947年、イスラエルの死海のほとりのクムランで発見された巻物の聖書に今のままのイザヤ書があり、それは炭素年代測定でBC100年と鑑定されたのです。
ここに書かれているメシヤ、キリストは意外な姿でした。彼は「見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも」ありませんでした。彼は「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」のです。また当時の人々には「顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」のです。しかし、彼は「われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」のです。しかし、当時の人は「彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ」と思いました。
ユダヤ人は、メシヤに、白馬に乗って堂々と歩く偉大な王を期待していました。
BC160年ごろ、ユダ・マッカバイオスという勇士によって、イスラエルは100年ほどの独立を勝ち取りました。このマカベア朝は100年ほど続きましたが、その間、自国の貨幣を発行するほどでした。エルサレムに入城したイエスさまを迎えて、イスラエル人はあのマカベア朝の再来を期待したのです。彼らは家に帰ると隠していた剣や槍を出して砥ぎ、戦に備えました。
しかし、イエス様はロバの子に乗られ、平和と愛について語られる優しいメシヤでした。その姿は彼らの期待からはかけ離れていました。パウロ先生は次のように表現しています。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。ピリピ2:6〜9
もしメシヤがイザヤ書の反対だったら、どうでしょうか。「仰ぎ見るべき姿で、威厳があり、われわれの慕うべき美しさにあふれていた」「侮られることなく、人に歓迎され、喜び人で、病など知らなかった」。人々は「争って彼を求め、彼は尊われた。」としたら多くの人のメシヤはこういう姿でした。
しかし、彼は「われわれの病を負うこともなく、われわれの悲しみを担うこともなかった」のです。そして、彼は「打たれ、神にたたかれ、苦しめられ」ることもなかったでしょう。彼は「その知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」こともなかったでしょう。「彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」ので私たちは救われるのです。
この方は、初めから自分のためではなく人のために生まれてきました。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 (中略)すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネ1:1〜14
キリストを最もまじかに見たヨハネはこう書いています。イザヤはその当時の一般人の印象を予言し、ヨハネは自分の見たメシヤを表現しました。それは「父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」のです。
この方は人間が失った神との接点、神とともに生きる道を与えるために来られました。罪に沈んで浮かび上がることが出来ない人間のために、自らこの世の汚れた泥沼の中に生まれてくださったのです。そして私たちが受けるべき罰、死を打ち砕き、新しい命によみがえるために、ご自身が罪を負い、死んでよみがえられました。
クリスマスはこの救い主の誕生を感謝する日です。それはあなたが神によって生まれる新しい命を受ける朝の光でした。感謝して受けてください。神の子となるために。
■マカベアけ 〜家 旧新約中間時代の後半,前2世紀の半ばから約120年間,パレスチナでユダヤ人を支配した祭司の家系で,ハスモン家とも言う.マカベア(マッカバイオス)という名前は,指導者ユダの別名.ヨハネ・ヒルカノス以後,ハスモン王朝(マカベア王朝)とも呼ばれるこの一族の中には,王の称号を受けた者もいる.
パレスチナのユダヤ人は,シリヤのセレウコス王朝の支配を受けていたが,アンティオコス4世エピファネスは「145年(前168年)……祭壇の上に荒らす憎むべきものを建て,(エルサレムの)周囲のユダの町々に(異教の)祭壇を築いた」(Tマカベア1:54).祭司であったマッタティヤは,エルサレムを逃れ,モデインに居を定めたが,偶像礼拝を強制されたため,王の役人を殺し,祭壇を打ち壊した.彼は「律法に対して熱心であり,契約を重んじる者はすべて私の後に従え」との呼びかけを残し,5人の息子と共に山に逃れ,反シリヤのゲリラ戦争を開始した.マッタティヤは約1年後に死に,三男ユダが戦いを引き継ぎ,シリヤ正規軍を破り,両者に和解が成立した.前165年にエルサレムを奪回,キスレウの月(現在の11―12月)の25日に,シリヤの偶像や豚のいけにえによって汚された神殿をきよめた.これを記念して行う宮きよめの祭(ハヌカーの祭)は,イエスの時代(ヨハ10:22)を経て,ユダヤ人の間で今日まで続いている.反乱を強力に支えたのは,ハシディーム(敬虔な者)と呼ばれた,律法に身をささげた者たちであったが,彼らは,純粋に宗教上の自由を目標としていたので,政治的独立を目指すマカベア家から離れていった.
ユダの戦死後,ヨナタンは戦いを進め,シリヤとの交渉で成果をあげ,ローマ元老院に使者を送ることによって,マカベア家の指導体制を固めた.ヨナタンの権力増大を恐れたシリヤは,前142年ヨナタンを殺害した.後継者シモンは,シリヤ内部の争いに乗じて,シリヤに税金の免除を認めさせ,ユダヤは独立した.シモンは海岸地方を占領し,交易による繁栄を目指した.Tマカベア13:41‐42には,「イスラエルから異邦人のくびきが取り除かれ,人々は公文書や契約書に『大いなる大祭司,将軍,ユダヤ人の指導者なるシモンの第1年』と記し始めた」とある.しかしシモンは女婿によって暗殺され,実子ヨハネ・ヒルカノスが実権を握り,以後この家系は「王朝」と呼ばれるようになった.ヨハネ・ヒルカノスの時にシリヤから完全に独立し,周辺のサマリヤ,イドマヤにも進出した.彼の政策は,宗教上の伝統に立つパリサイ派等との争いを起すことになった.
以後の後継者は,マカベア反乱の初期の宗教的伝統からはずれ,後継者問題で骨肉の争いを演じ,宗教紛争を起し続けた.内部争いに,イドマヤ,ナバテヤ,ローマが干渉し,指導体制が混乱した.そしてアンティゴノスが前37年に処刑されるに及んで,ハスモン家は滅びた.イドマヤ人であったヘロデ大王は,ハスモン家のマリアンメと結婚することによって,ハスモン家の後継者,すなわちユダヤ人としての名目を得た.マカベア家は,旧新中間時代のパレスチナにおける,ユダヤ人の活動の中心であった.(久利英二)