ホームページ・メッセージ100822 小 石 泉
死とはなんだろう
8月に入ってマスコミは戦争の回想を流します。そこには無数の死があります。玉砕、特攻隊、大空襲、原爆。第二次世界大戦だけで、日本だけでも300万人以上の人命が失われました!多くの場合、政治や軍隊の判断ミス、卑劣な裏切り、武器も弾薬も食料も補給しないで死ぬことを強要し、それを玉砕と言う美しい言葉で置き換え、靖国神社に祭って、いくばくかの罪滅ぼしを求めているかのようです。あまりにも理不尽で、不条理で、納得がいかない死ばかりです。しかし、戦争だけではない、今も、テロで、突然の暴力で、幼児虐待で、交通事故で、自殺で、無意味で理不尽な死が毎日のように報道されます。
一体、死ぬってなんでしょうか。私はもう一度死がなぜ人間に起こるのかを考えて見ました。
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:15〜17
ここが、人間が死と言うものを迎えるに至った原点です。神の命令に背いて、食べてはいけないと言われた木の実を食べたからです。必ず死ぬと。ところが英語の聖書を読んでみると、日本語の聖書にないニューアンスがあることに気付きました。
最も有名なKing James Versionでは、こうなっています。
"but of the tree of the knowledge of good and evil you shall not eat, for in the day that you eat of it you shall surely die."KJV Ge.2:17
これで見ると「その実を食べた、その日にきっと死ぬ」とあります。
また、Today’s English Versionでは;
except the tree that gives knowledge of what is good and what is bad. You must not eat the fruit of that tree; if you do, you will die the same day."TEV Ge.2:17
食べた「その同じ日に死ぬ」とあります。
残念ながら私はヘブル語が出来ないので、正確なことはわかりませんが、英語の聖書が、わざわざ「その日に」と言う言葉を付け加えたとは思えません。しかし、変ですね、アダムとエバは「その日に」死んでいません。それから900歳も生きていました。
そうすると、ここで言う「死」とは私たちが通常知っている「死」ではないのではないかと私は考えました。アダムとエバはあの日にやはり死んだのではないだろうか。それは肉体の死ではなく霊的な死、神と隔てなく生きていた関りを失ったと言う意味ではないのか。
聖書は、人間には二つの死があると言うことを何度も語っています。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。ヘブル9:27〜28
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイ10:28
明らかに聖書は肉体の死をその後に来る魂の死よりもはるかに軽いものだと言っています。それもそのはずで、肉体はせいぜい長生きしても90〜100歳です。(最近、日本ではそれ以上になると居なくなるようですが…)しかし、その後の死は永遠です。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。黙示録20:14
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」21:9
第二の死は火と硫黄の燃える池とあります。
そして第二の死に対して、第二の命があります。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、何の力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となりキリストとともに、千年の間王となる。20:6
イエス様はこういっておられます;
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。マタイ16:26
しかし、弟子たちは死にました。もしイエス様の言われた命が、単なる肉体の命なら、弟子たちの死は空しく、何の得にもならなかったことになります。ですから、やはりここで言う命は霊の命のことだと思われます。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。マタイ10:39
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。16:25
ここなど、二つの命のことが分からなかったら、全く支離滅裂で何が何だか分からないでしょう。パウロ先生もこう言っています。
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
Tテモテ4:8
肉体の鍛錬も“いくらかは”有益ですって! しかし、永遠の命に至る敬虔(日本語の他の訳は“信心”英語は“spiritual exercise” 霊的な鍛錬)はもっと有益であると。
この第二の命をパウロ先生は別の言い方をしています。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
Uコリント4:16
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
エペソ3:16
元々、アダムとエバは第二の命を持っていました。しかし、善悪を知る木の実を食べたために失ってしまいました。そして、後のアダム、イエス・キリストによって私たちはその命を取り戻したのです。それを“内なる人”と呼びます。この人は死ぬことはありません。永遠に生きます。エデンの園より美しい神の国で。
それにしても第二の死とか永遠の命ということが、いまいちしっくりと判らないのも無理のないことだと思います。それは人間の経験、想像力、言語を越えたことだからです。