ホームページ・メッセージ100725 小 石 泉
羊と羊飼い
かなり前に、いのちのことば社から「羊飼いの見た詩篇23編」と言う本が出ました。この本はすばらしいものでしたので私は何度かメッセージで用いさせていただきました。私たちの教会でも聞いた方は多いと思います。しかし、最近の若い方々には知らない人も多いと思いますのでこの際、残しておきたいと思います。なお口語訳を使います。
詩篇23編 ダビデの歌
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
*主はわたしの牧者であって:
羊飼いが小羊を買うか預けられると、まず、耳に傷をつけます。それには羊飼い特有の形があって一目で誰のものか判るのです。ナイフで切るので小羊は痛がります。しかし、それはほんのしばらくの痛みです。牛の場合などは焼印の場合もあります。
私たちがクリスチャンになったとき、ある場合は、家族から、友人から、近所の人から、離されてしまう事があります。今までのようには行かなくなるのです。小さな痛みが伴います。時にはそれは大きな場合もあります。国家的な迫害や拷問などもあり、キリストの所有であると言うことを表す傷を負うことになります。
だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。
ガラテヤ6:17
パウロ先生の場合本当に焼印を押されたようです。これは現在でもある国々では起こっています。リチャード・ウオンブランド先生の「マルクスとサタン」を読むと良く分かります。中国のクリスチャンのように雄々しく、喜びに満ちて進みたいですね。
*わたしには乏しいことがない
羊飼いが広い牧場を持っている場合、彼はそこを大体4つの区画に分けます。そして初めのフィールドで羊を飼ったあと、そこの草がなくならないうちに別のフィールドに移動させます。そうしないと羊は根っこまで食べてしまうからです。そうして3つ目のフィールドに来るころには最初のフィールドの草が回復していることになります。
牧場のない場合は、野原の草が食べ尽くされないうちに別の野原に移動するのです。この野原には毒草が生えていたり、毒蛇や獣が居る場合がありますから、羊飼いはその野原の状況を良く知っていなければなりません。良い羊飼いは賢い羊飼いです。
*主はわたしを緑の牧場に伏させ
緑の牧場は非常な努力と細心の注意によって維持されます。羊はそこに行っても、ある種の条件が整わなければ“伏し”ません。それは、草が豊富で満ち足りていること、安心していること、健康であることです。コヨーテや狼やライオンなどの遠吠えやうなり声が聞こえるだけで動揺し走り出してしまうこともあるのです。そして岩にぶつかったり、がけから落ちたりします。また健康も大切です。色々な病気、皮膚病、中には羊の皮膚に子供を産む蝿が居るそうです。羊飼いは一頭一頭にいつも目を配っていなければなりません。
*いこいのみぎわに伴われる
みぎわというのは水のほとりです。羊はあまり水を飲みません。草の葉についた朝露でも間に合うことがあります。けれどもやはり時には水が必要です。そんな時、羊はどんな水でも飲んでしまうのです。寄生虫や汚染された水でもかまわずに飲んでしまいます。ですから羊飼いはどこに良い水があるか、何時あげればよいかを考えておかなければなりません。
*主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
良く育って、肥えた羊にも危険があります。ゆっくりと横になったとき、たまたまそこに小さなくぼ地があると、ひっくり返ってしまうことがあるのです。そうなると起き上がることが出来ません。次第に足から血が下がってゆき、羊飼いが起こしてあげなければ、そのまま鷲やコンドルの餌になってしまいます。
羊飼いはそういう羊を見つけると、抱き寄せて優しく声をかけます。羊はパニックになっているので急いで起こすと走り出して藪や崖に突進してしまいます。起こす時も足に血が通うようにマッサージしてあげます。すると羊は落ち着いて、何事もなかったかのように・・・・また元気に草を食べ始めるのです。
*たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。
夏になり、低地の草が枯れてしまう地方では、羊を高い山に連れてゆきます。高い山には深い谷もあります。クリスチャンも段々高度な教育を受けるようになると、危険も増します。高い山には霧も発生します。しかし、いつも主を見失わないようにしなければなりません。
*あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
羊飼いの杖と鞭は羊を撃つためにあるのではありません。敵と戦うために持っているのです。コヨーテや狼やライオンなどは杖、毒蛇を一撃で倒す鞭は日ごろから訓練しておかなければなりません。時には杖はコミュニケーションの手段にもなります。ちょんちょんとつついて愛情を表現します。また、あの本では出産の時、人間の手の匂いをつけないために杖で赤ちゃんを扱うと書かれていましたが、本当かどうかわかりません。
*あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
羊飼いは夜になると羊を石で出来た柵や、洞窟に入れます。夜は野獣が活動するときだからです。そしてその入り口で寝ます。イエス様はその事を言っておられます。
イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。」
ヨハネ10:7
また冬など、羊が寒さで死なないように、薄めた酒を飲ませることがあるそうです。クリスチャンの場合はもっと大きな宴(うたげ)がありますね。あふれる感謝と喜びの宴です。
また。頭に油を注ぐというのはクリスチャンの場合、聖霊の注ぎを表しているのでしょうが、羊の場合もあるそうです。それは二つあって、一つは皮膚病などの場合、オリーブ油に薬を混ぜて塗ります。これは羊同士の争いで頭が傷つくのでするのですが、すべって怪我をしないという効果もあるそうです。
主は、サタンの前で私たちに宴を催してくださるのです。
*わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
幾つかの群れの羊が、一箇所の水飲み場に集まると、どうやって分けるのか心配した人がいるそうです。そんな心配は無用でした。羊飼いが「行くよ」と声をかけると、それぞれの羊は、自分の羊飼いに従ってついていったそうです。
門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ヨハネ10:3
あなたはあなたの羊飼いの声を知っていますか。今は、惑わすものが次々と現れています。どれが主イエスの声か、誰について行けばいいのか。羊のように賢くあってください。生きている限りは、恵といつくしみ欠けることはないと約束されているのです。とこしえに主の宮に住むために、聖書に耳を傾け、御言葉を聞き分けてください。
あるクリスチャンでない人がこう言いました。キリスト教はけしからん、人間を羊に例えている。動物のように見ている。しかし、その人は次の言葉を知らなかったのでしょう。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。ヨハネ10:11