ホームページ・メッセージ100718        小 石  泉

教会とパーツ

聖書の中で教会は色々に例えられています。まず、キリストの
花嫁と呼ばれています。
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。黙示録21:9
注意していただきたいのは個人個人が花嫁なのではなく、歴史上の全ての世界の教会が集まってキリストの花嫁となるのです。
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。エペソ5:27
と言うとき、それは個人個人ではなく、全体を表しています。もちろん個人個人も清くて傷のないものとなることは望ましいことですが、そのように完成することは不可能ですし、そうでなければ天国に入れないと言うなら、一人も入れないでしょう。
さらに、と例えられています。
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。Tコリント12:27
パウロ先生は、教会を構成する一人ひとりを人間の体のパーツに例えています。
実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。12:14〜20
目や耳や鼻はそれ自体が体全体を表すわけではなく、部分に過ぎません。体の機能のすべてを実現できるわけではありません。
さらに、
建物(聖なる宮)と例えられています。
またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。2:20〜22
建物が成長するという言い方は奇妙ですが、建築中という意味です。ちょうど東京スカイツリーのように教会は完成に向かって組み合わされ、高くなって行くのです。
 そして、次のように言われています。
神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。エペソ1:20〜23
 本当に、今、「すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちている」教会が、この世に存在するでしょうか。それも有り得ません。どこの教会も不完全なものです。これはやはり歴史上の全教会の集合するときに実現するのです。ただ、建築家が完成した建物を頭に描くことが出来るように、パウロ先生は神様の描かれた設計図を見てそう言っているのです。
 ところで、ここにすばらしいレンガの山があるとします。一つ一つは立派に焼かれ、堅くて、美しいのです。そこに来た人は「ああ、立派なレンガの山ですね」と言うでしょう。しかし、そのレンガの山で教会を建てたなら、そこに来た人は「ああ、すばらしい教会ですね」と言うでしょう。どんなにすばらしいクリスチャンでも一人一人がばらばらであるなら誰も教会を見ることは出来ないのです。それは組み合わされて初めて建物として機能します。本当に教会が建てあがったとき、レンガは忘れられなければなりません。私たちが教会で機能するとき、私たちは消え去らなければならないのです。私たちの体のパーツが意識されるときは、その部分が病んでいるときです。健康なパーツは忘れられているのが正常なのです。意外にこのことが判らず、一人で苦しんでいるクリスチャンが多いものです。組み合わされて初めて完成することがわからないのです。
今、教会に出席できないクリスチャンがたくさん居ることを知っています。もちろん個人に責任があることも多いでしょう。しかし、悲しいかな、出席できる教会が少ないことも事実です。皆がもっと謙虚になって自分たちが不完全であることを認めて、互いにいたわりあうことをしなければ、この状態はなくならないでしょう。
 さて、キリストはわたしたち一人一人のために十字架にお掛かりになり贖いの業を成し遂げられました。その救いは完全で、信じるものは救われます。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。使徒16:31
では次の御言葉はどう考えたらいいのでしょうか。
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」マタイ25:31〜46
 これは終わりの時に、神の前にすべての人が集められて裁きを受けるときのことだと思われます。ではここで裁かれる人々の中にクリスチャンは入っているのでしょうか。もし入っているなら、私たちの救いとは何でしょうか。私たちはその行いによって永遠の命と刑罰に分けられるのでしょうか。私たちが人に親切にしなかったら、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」を言われるのでしょうか。ゴルゴタの十字架は不十分だったのでしょうか。
 ここには3種類のグループがあります。羊と山羊と“わたしの兄弟たち”です。わたしの兄弟とは誰のことでしょうか。キリストはこう言っています。
天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。マタイ12:50
 これは明らかにクリスチャンのことです。キリストの救いは完全で、もう一度裁かれることはありません。御子の十字架で流された血はすべての罪からわたしたちを救うからです。
 では、ここに問題が起こります。クリスチャン以外でも「永遠のいのち」にはいる人がいるのでしょうか。そこには“セカンドチャンス”があるのでしょうか。
 ここにある救いは、“キリストの花嫁”“キリストのからだ”“神の宮”というような救いではありません。別のものです。
花嫁と花婿は一体です。
そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。マタイ19:5
 キリストの花嫁は、もうキリストと離れることはありません。いつも側にいるのです。ご自身の命をもって買い取った花嫁を裁く花婿は居ません。
 では、ここにある救いとは何でしょうか。主はこうも言っておられます。
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」マタイ10:42
 キリストの弟子である人に、一杯の水を飲ませた人は報いからもれることはないのです。ここには火の池に投げ込まれるという色彩はありません。ただ、そこには確実な救いが約束されているわけではないのです。これはまだ隠された真理なのです。
 確実なことは「信じるものは救われ」キリストの花嫁、キリストのからだ、神の宮とされるということなのです。それだけが保障されている真理です。