ホームページ・メッセージ100704        小 石  泉

御子のいらだち

イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。マルコ9:19(口語訳)
 ここは非常に珍しいところです。主イエスがいらだちをあらわにされたのです。他にも主が怒りを表された場所があります。それは神殿の前の商売人たちの屋台でした。当時は神殿に捧げるお金も、動物も特別清いもので無ければならないと決められ、お金も一般のお金とは別に献金用のお金に換えなければなりませんでした。その交換比率は悪く、商人たちは暴利をむさぼっていました。神殿の祭司たちへの付け届けもあったようです。ですから、その時の主イエスの御怒りは私たちでも判るのです。ところがこの箇所では誰に向かって憤られたのか、私にはよくわかりませんでした。
 この時、おしの霊に付かれた子どもの癒しを民衆の一人が弟子たちに願ったが直らなかったということに対する答えとして語られた言葉です。実にささいな話なのです。
群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。9:17〜18
 そうすると、これは信仰の薄い弟子たちを嘆いて叱責した言葉なのでしょうか。弟子たちを愛されていた主にしては、ちょっと無慈悲な気がします。そして、もしそうなら「何と不信仰なお前たちだろうか」といわれるはずです。また、もしこの親に対して言ったのなら、もっと奇妙です。この親は何も悪いことをしていません。ただ息子の癒しを求めてきただけです。ここで主は「なんと言う不信仰な時代だろうか」と言われています。
 この御言葉はこの事件に先立つ大きな出来事と無関係ではありません。
六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。9:2〜8
 主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。この山はおそらくヘルモン山だったと思われます。そこにモーセとエリヤが現れて主と語り合っていたのです。それはルカによれば十字架の死についてでした。
すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。9:30〜31
 ここでモーセとエリヤと主イエスは十字架によるあがないの死に付いて語っていました。しかし、考えて見てください、モーセとエリヤは天から下って来たのです。彼らは何の挨拶もなしに、突然、主と十字架の死の話をしたのでしょうか。天の消息、御父のご様子など、何の会話も無かったのでしょうか。たとえそうだとしてもモーセとエリヤはこの世の姿ではなく、天的な姿に変えられていたはずです。事実、弟子たちは主の御衣が真っ白に輝くのを見ています。ここには短い間にせよ、天の輝き、清さ、永遠性、栄光があったはずです。主イエスはどんなに懐かしく、慕わしく、喜ばしく思われたことでしょう。そこは30数年前まで御子が住んでいた場所だったのですから。
 その歓喜と、高貴な心の高揚のままで山から下りてきたとき、そこにあったのは「不信仰な時代」でした。それはこの時代のことだけではなく「この世」であったのです。汚濁にまみれた「この世」を見られたとき、思わず主は本音を漏らされてしまったに違いありません。「いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。」
 私は先日とても感銘を受けた話を聞きました。それはインドネシアのイスラム教の聖職者がキリストを信じて改宗しました。あるキリスト教の牧師が彼に聞いたそうです、「イスラム教の神とキリスト教の神は同じですか?」すると彼はこう答えたそうです、「いいえ、違います。イスラム教の神には御子が居られません。」
 私もおぼろげながらアラーの神は聖書の神の名前が違うだけなのかと思っていました。しかし、この言葉にはっとさせられました。御子がいなければ神は見えないと同じです。
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。ヨハネ14:9
 主イエスを見たものは神を見たのです。言い換えれば主イエスを見ないものは神が見えないのです。ヨハネはこう言っています。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネ1:14
 神の御子が人となった。私は生涯をこのことを伝えることに賭けました。私はキリストを信じることによる利益について語ることは下手です。喜ぶこと、楽しむこと、病が癒されること、奇跡が起こること、そういうことはあまり上手く話せません。ただ、神が人となったと言う事実に驚愕して、話さないではいられなかったのです。それだけが私のメッセージです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。ピリピ2:6〜11
 世界を創造された神の御子が、神と等しくあることを捨てて、人となられただけでも驚くべき事なのに、そのお方が、人の為に十字架にお掛かりになり罪を許す業をされたと言う神秘をどうしたら理解していただけるのでしょうか。
 その御生涯で一度だけ、思わずもらしたいらだちの言葉。私たちはこの後ろにある真実をいつの日か目の前で見ることでしょう。その日まで、信仰の歩みを続けましょう。