ホームページ・メッセージ100509        小 石  泉

愚か者

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。マタイ7:24 〜28(口語訳)
今年、私は七〇歳になります。自分の人生を振り返って思うことは、なんという愚か者だったのだろうということです。惨めな失敗、哀れな言葉、選択のミス。そんなことばかりでした。他人から「お前は馬鹿だ」と言われると腹が立つのですが、自分で自分を評価すると、どう考えても賢くないと思わずにはいられません。これは謙遜で言うのではなく、心底、情けないのです。こればかりは“自他共に認める”ことです。
私はパウロ先生の次の言葉に、比較にならないレベルですが同意します。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。ローマ7:15〜24
ああ、なんとみじめな人間なのだろう。本当に一つも良い事はなかった。情けない人間だった。私の肉の命は汚濁に満ち、恥に満ち、悲しみに満ちていた。そう思います。それは私の人間性の集大成です。
しかし、一つだけ誇れることがあります。それはイエスをキリストとして迎えたことです。これによって私は永遠の命を持ち、人生の意味を知り、死後の世界に大いなる希望を抱いています。こんな私でも神は言ってくださるのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。イザヤ43:4(新改訳)
 自分には何一つ価値が無い。それどころか「善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいる」。良いところがないだけならまだしも、悪いところばかりなのです。それをつくづく悟った時、この言葉は大いなる輝きを持って私に迫ってきます。表面的な慰めや素敵な言葉ではなく、深く傷ついた傷跡に塗られる薬のように癒され、潤されます。
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。うひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。ルカ23:39〜43
 私はいつも、この強盗の事を思います。この後の方の強盗は前のと同じく、ろくな人生を送って来なかったのでしょう。死刑になるぐらいだから、殺人や強盗や最悪の犯罪を犯してきたはずです。その人生はいまわしい罪と恥に満ちていたのでしょう。それは極限まで愚かな人生だったのです。しかし、最後に彼は賢い選択をしました。彼は死の間際に主イエスを求めました。一つも良いことなどしませんでした。何の功績もありませんでした。死の直前まで彼は極悪人でした。しかし、ただ「イエスよ、私を思い出してください」と言っただけで、彼はパラダイスに行きました。主イエスの十字架は午後の3時ごろだったと言われています。イスラエルでは一日は日没で終わりますから、「今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたのは、1〜2時間の間のことです。 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。使徒2:21 とあるように、ただ、主の名を呼ぶだけで救われるのです。お気に召そうと召すまいと、これがキリスト教信仰の真髄です。
 実は私も、どこか一つぐらい良いところがあるのではないかと期待してきました。人間誰しも自分が全く無価値でどうしようもないとは思いたくないのですから。しかし、年を取るに連れてそんな希望ははかない望みだと判ってきました。
もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。レビ13:12〜13
 モーセの律法では、全身がらい病で清いところが全くなくなればその人は清いとされました。不思議な決まりです。しかし、私たちも全身に良いところ、正しいところが一つもないと自認するとき、清いと認められるのです。だから、私が自分を汚れているとか、良いところが一つもないと言っているのではないのです。本当に、駄目だと思うのです。
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」 その後に続く言葉を覚えましょう。
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。ローマ7:25〜8:1
 しみじみと、この言葉が胸を打ちます。こんな者でも救われるのです。感謝です。