今日は、あまり取り上げたくないテーマに挑んで見ましょう。それは“人間はどこまで清くなれるのか”ということです。これは罪の中に生まれた人間が神の前に生きると言う非常に不条理な状態から生まれてくる葛藤です。
どちらかと言うと、一見して旧約聖書ではかなり人間の弱さに寛容な姿勢があります。
人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前に清くありえようか。ヨブ4:17
人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう。ヨブ15:14
この言葉は私たちの理性と精神からの実感でしょう。誰でもほとんどが納得するでしょう。それで次のような叫びが起こります。
神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。詩篇51:1〜3
ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。51:7
これはダビデがウリヤと言う部下の将軍の妻を奪い、ウリヤを殺した後で歌った詩です。姦淫と殺人、非常に大きな大罪です。本来なら極刑を持って裁かれるべき罪です。しかし、ダビデが塵のようになって悔い改めたとき神は許しました。しかし、神殿を建てることは許されず、その子ソロモンに託されました。
去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。イザヤ52:11
わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。エゼキエル36:25
清くなれと言う聖書の要求は、不変の真理でしょう。しかし、どれだけ清くなれるかという問題は別です。“清め”という非常に大きな課題は、際限なく人を圧迫し脅迫することになります。統一教会の「原理講論」を読んだことがありますが、この罪の罪責感を最大限に利用して、マインドコントロールの手がかりとしていると思いました。
一部のキリスト教会でも、この清めという教理が非常に強調されているために、異常な苦しみと、他者を裁くことが起こります。
キリスト教とは本質的に、自分への完全な失望から始まるのです。自分には神の前に出て行くどんな資格もないのだという自覚から出発するものです。
祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。レビ13:13
レビ記にあるように、らい病人が少しでも健康な部分があれば汚れており、全身がらい病に覆われていれば清いのです。同じように私たちも、少しでも自分の義に頼るところがあり、自分の清さに誇りとするところがあるなら、その人は汚れています。全くわたしは罪人で一箇所も正しいところはないと自覚するなら神に受け入れられるでしょう。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。: そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。ヘブル10:16〜22
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」とあります。主イエスの十字架の血で、全ての罪が「赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」
ここに大きな矛盾があります。長い間、私はこの矛盾に悩んできました。キリストの血によって清められたのに、なぜ再び清められなければならないのか。
愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。Uコリント7:1
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。エペソ5:27
そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。Tテサロニケ3:13
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。ヤコブ1:27
ここに、人間の複雑さがあると思いました。「許された、清められた、だから何をしても良いのだ。」人間はそうなりがちなのです。清さは与えられています。しかし、放縦に注意しなさいということです。「許し」と「放縦」が互いに矛盾した聖書のテーマのように感じます。聖書はこの二つの撚り糸によって編まれたセーターのようなものです。だから微妙な二つの色合いが入れ替わり立ち代り現れるのです。
そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。ルカ11:39〜41
わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。Tテサロニケ4:2〜8
許されています。愛されています。でもいい気にならないように。それが“清さ”の基準なのです。