ホームページ・メッセージ100328        小 石  泉

愛の原則

「人間の魂は、子供でも犯罪人の魂でさえも、自分自身と神のみの属するものである。われわれはたとえある人間の肉体的存在については法が自由な処置を許しているときですらも、人の魂に対して、力任せに、あるいは差し出がましくふるまったり、人の魂の中に土足で入り込むようなまねをしてはいけない。 愛だけが『あなたの心を私に与えよ』と求めることが出来る。愛もまた己の心を、しかも自分の方から先に与える。
神に法則と言うものがあるとすれば、神すらもこの自然法則には従うであろう。事実、多くの人は、まず最初に必ず来る神の愛を見ないために、神を愛さない。いつも変わらず、先に神が人間を愛しなさった。と褒め称えてばかりいる説教者は、愚かなことである。それはただ必然のことだったに過ぎない。
この感覚はどんな人でも持っていて、真の愛の根底と息吹はまた、ただ装うことも、むなしい言葉で代えることも出来ない。だからこそ、たいがいの子供が両親や教育者を愛さないのである。」カール・ヒルティ「眠られぬ夜のために」小池辰雄編白水社(原文はもっとひらがなが多い)
 政治家であり作家としても有名だったカール・ヒルティは珠玉の文章を遺しています。ここに書かれていることを聖書はこう言っています。
エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。雅歌2:7
 最近、男性が自分の思い通りにならないといって、女性やその関係者を殺す事件が多く発生しています。これは、愛ではありません。自己中心です。おもちゃをほしがっていつまでもぐずる幼児のようなものです。愛こそ魂の結びつきなのです。
 一方で若い女性タレントが男性が自分と結婚してくれないと言って、自殺したケースもありましたが、これも愛ではなく自己中心です。
 SEXは愛によって結ばれるべきですが、愛そのものではありません。愛のないSEXもあるからです。これが厄介な問題をいくつもいくつも生み出します。最近は若い女性が簡単に体を任せるために、それを愛と取り違えて互いに深い傷を負うことが頻繁に起こっています。人間は愛のために忍耐の訓練を受けるべきなのです。
 神様が人間を愛されたとき、人間の魂を束縛することはしませんでした。なぜなら、自由がないところに愛は生まれないからです。
「神は愛である」というとき、神ご自身も愛の原則に縛られています。人間を御自分の愛によって思い通りに動かさず、人間が自分から神を愛するまで待つのです。
神様がエデンの園に「善悪を知る木」をはやしたとき、人間がその木の実を取って食べることを知っていました。しかし、そうしなければならなかったのです。愛は自発でなければならないからです。相手に自分を拒絶する自由がなければ愛は成り立たないからです。その結果がどんなに悲惨なものであっても、愛の原則を外れたら愛は成立しません。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。ヨハネ4:10
 まず神の愛がありました。それは天地創造の前からです。その愛は宇宙にこだまして轟きました。人間はその愛によって創造され、その愛の砕片が埋め込まれたのです。それはからし種のように小さかったので人間は自分で育てなければなりませんでした。しかし、上手く育てた人は少数でした。
 神の愛は大空のようにわたしたちを覆っているのですが、わたしたちはその愛を切り取ってポケットに入れておくことが出来ません。
 イエス様が弟子たちに与えた要求は「たがいに愛し合いなさい」でした。 キリストを迫害したパウロはこう言っています。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。Tコリント13:17(口語訳)
 これがキリストに愛されたヨハネの言葉ではなく、学者のようなパウロから出ている言葉であることが驚きです。自分に無いものはこのようには語れません。(わたしなど言い訳しながらでないと語れませんもの。)
弟子であるということ、特に使徒であるということは、愛においても卓越した人とあったに違いありません。パウロは「預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていて、山を移すほどの強い信仰があって、自分の全財産を人に施して、自分のからだを焼かれるために渡す」ことも出来たのです。そして愛の人であったに違いないのです。そうでなければこのようなことを書けません。使徒たちやキリストの弟子たちが見て、読んでいるのですから。
宇宙を創られた方が、愛であるとは何と不思議でうれしいことでしょうか。
もし、神が愛でなかったら、宇宙はこんな美しく壮大で秩序だったものではなかったでしょう。
もし、神が愛でなかったら、宇宙は巨大なごみためになっていたかもしれません。
もし、神に少しでも憎しみや偽りがあったら、創られたものは虐待される子供のようになっていたでしょう。
 アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデなどの偉大な聖徒たちは、人間的には完全ではありませんでした。みんな失敗をし、私たちと同じ普通の人でした。しかし、彼らが永遠に讃えられるのは、神を愛したからです。愛は強力な磁石のように神に引き寄せられます。
あなたは神に愛されています。だから愛によって応えてください。「神よ、あなたを愛します」と。そこがすべての出発点です。