ホームページ・メッセージ100321        小 石  泉

血の叫び

毎日のように幼子の死が伝えられます。親が殺すのです。子供は愛によって成長するのに、憎しみによって殺されるのです。私は子供が好きなので、こういうニュースはたまらない気持ちになります。一方で女性が何人もの男性を、睡眠薬を飲ませて殺すという別々の事件が2つも起こりました。今や日本でも殺人は日常茶飯事です。
また、イラクやアフガニスタンでは今もテロが起き、多くの人が死んだり傷ついたりしています。米軍は無人の飛行機を遠距離から操作して、怪しいと思うものにミサイルを撃ち込んでいます。中には結婚式のパーテーにミサイルを撃ち込んだケースもありました。今やテレビゲーム感覚で殺人が行われています。 ベトナム戦争以来無数の人命が意味もなく失われています。第二次世界大戦のときは、もう降伏の意思を伝えていた日本に原爆が投下され数十万人が死にました。中国の文化大革命では2千万人が死んだとも伝えられます。
どうしてこうも理不尽なことが起こるのでしょうか。人間は何と多くの人を殺し続けてきたのでしょうか。そして、神様はいつまでこのようなことを見過ごしにしておられるのでしょうか。
創世記で最初の家庭アダムとエバの子供のカインが弟アベルを殺したとき、神はこう言っています。
そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」創世記4:10
 血が地面から叫んでいたのです。それでは、それ以来どれほど多くの血が叫んでいたことでしょうか。なぜ神様はそれらの血に答えられないのでしょうか。
 これと直接関係はないのですが、黙示録に血の叫びが出てきます。
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。黙示録6:9〜11
ここで叫んでいるのは、無意味に死んだ人々ではなく、キリストの証人として生きた故に殺された殉教者です。この人々の正義の行使への訴えに対して、同じように殺される人々の「数が満ちるまで」待つように言い渡されています。
 また、次のような御言葉もあります。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」マタイ13:24 〜30
 ここでも収穫のときまで、毒麦は放置されます。何んでだろう? と思いますね。どうして神様はこんな悲惨と理不尽を放置なさるのだろう。なぜ、早く正義の裁きを行ってくださらないのだろう。
 上の御言葉に、一つのヒントがあります。「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。」人間関係は複雑です。悪い親の子が善良なこともあり、その逆もあります。今、途中で裁きを行うと、裁かれてはならない人も巻き添えになるかもしれません。
アブラハムがカナンの地を与えると約束されたとき、400年後だと言われました。
そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」創世記15:13〜16
 それは当時そこを支配していた「エモリ人の咎が満ちるまで」待つようにと言われたのです。神様はエモリ人の咎が満ちるのを待っていたのではなく、裁きを行うことを忍耐して待っておられたのです。
 今も同じではないでしょうか。世界に正しい裁きを行う方法、時期、範囲、程度などすべては非常に複雑で簡単ではありません。すべての人が納得する時と場合があるのです。誰一人、「神よ、あなたの裁きは不当です」と言うことができないそういう時です。
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。イザヤ55:9
 神の思いは私たちの思いよりはるかに高いのです。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。ローマ11:34
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。Tコリント2:11
 私たちに到底理解できない神の計画。私たちはただ、神の正義と愛を信じて待つことしか出来ません。命の叫びは確かに神に届いているのです。それだけは確かなことです。
それにしてもこうも命が簡単に失われていくのを見ていると、この世界は決してこれで終わりではなく、もっと確かな世界があるのだと思いますね。思いがけずに失われてゆく命が、それで終わりではなく、すべての人が神の御前に集められ正しく裁かれると言うことは絶対になければならないと思います。そうでなければ、その不条理に耐えられません。私は神を信じます。その正義と愛と御計画と。何よりも神の存在を。