ホームページ・メッセージ100314 小 石 泉
レビ記 No.[ 誓願の捧げもの(最終回)
27章 誓願の捧げもの
人が特別な誓願をするときの決まりがあります。
20〜60歳までの男は銀50シケル、女は30シケル。
5〜20歳までなら20シケル、女は10シケル。
1ヶ月〜5歳までは男は5シケル、女は3シケル。
60歳以上は男15はシケル、女は10シケルでした。
■シェケル ヘブル語の「量る」という動詞から派生した語で,度量衡の基本単位であったが,後に貨幣の基本単位となった(アモ8:5).ヘブル人は元来天びんと重り石で金銭その他のものを量った(レビ19:36).その単位はタラント,ミナ,シェケル,ゲラ,ベカであった(出30:13,38:26,エゼ45:12).ヘブル人はこの単位で銀を量って取引きをした(創23:16).シェケルは最もよく使われた度量衡の単位であり,通貨の単位であった(出38:28‐29,ヨシ7:21,U列7:1).出エジプト以後,シェケルは宗教的目的に使われる場合もあり,それは聖所のシェケルと呼ばれた(出30:13,レビ5:15,民3:47).→かへい 貨幣,どりょうこう
この捧げものの特徴は自発的なことです。例外として貧しい者にはそれなりの評価が祭司によって決められました。動物や家や土地を捧げることもありました。これらの捧げものは祭司のものとなりましたが、取り戻すことも出来ました。その場合、評価額に5分の1を加えました。土地の場合ヨベルの年に合わせて、評価額も変わりました。
動物の初子は初めから神のものですから、こういう自発の捧げものにはなりませんでした。驚くのは人間を捧げることもあったと言うことです。この人は殺されました。これは新改訳聖書の造語である「聖絶」の思想から、敵の捕虜のことであると考えられます。
また、すべてのものの10分の1は神のものとして捧げられました。
27:30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。27:31 人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。 27:32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。 27:33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」
27:34 以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。
レビ記を学んで
レビ記を学んでいるとき、若いころ登った富士山のことを思い出しました。富士山は遠くから見ると美しい山ですが、登ってみると赤黒い山肌に岩石が転がっている険しい山です。苦しくて途中で引き返したくなるのを耐えて登ったときの達成感は格別なものでした。
レビ記は楽しくもなく、時々いやになる箇所ですが、登らなければならない山のような書物です。
これらの祭儀を、当時やその後の世界の宗教と比較してみてください。南米のインカやマヤでは無数の幼子が殺されて太陽や月に捧げられました。ギリシャやローマや東南アジアの寺院(アンコールワットなど)では若い女性たちが神殿娼婦として仕えていました。日本でも大きな神社仏閣には必ず遊郭が付き物でした。人は自分の好みに任せて神々をつくり、自己満足と欲望を宗教の形にして来たのです。さらにエジプト、イギリスなど多くの場所で明らかに悪霊との交流の痕跡があります。
そういう祭儀と比べて、なんと清らかで美しい祭儀でしょうか。ただ、私たち日本人から見ると、血と肉の焼ける匂いが充満している印象があります。それはやはり砂漠の民と豊かな水に恵まれた地に住む民の違いでしょうか。昔、日本のことを“豊(とよ)葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国”と言いましたが、体に染み込んだ環境の違いは如何(いかん)ともし難(かた)いですね。
しかし、レビ記はイエス・キリストを最も端的に表している書物と言えるでしょう。毎年毎年捧げられる動物の犠牲。注がれる血。すべてはただ一度十字架の上で成し遂げられた贖いの業によって、永遠に有効なものとなりました。
以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。 すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。
もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。ヘブル8:1〜6
さらに、次のように書かれています。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。ヘブル9:11〜15
もう、何も必要ありません。主イエスが大祭司となり、犠牲の羊となって天にある幕屋でレビ記を完成されたのです。ただ、感謝して受け取りましょう。
レビ記の神学的メッセージ(聖書の達人の注解書より)
レビ記は,その神学的背景からも明らかなように,神の民がどのような現実の中で生かされるのかを教えるだけでなく,神の契約の本質,更には福音の本質が何であるかを私たちに教えるものである
@旧約の宗教の中心は,預言者たちの運動・活動にあるのではなく,シナイ契約に基づき,祭司によって執行される「神礼拝(祭儀)」にある.この場で強調されている神の属性は,「聖」である
A神の「恵みの契約」の本質は,神が人の中に臨在され,人と交わりを持たれるという,人格的関係=礼拝にある.イエス・キリストによってもたらされた神の国の福音の中心的内容は,神との人格的関係の回復,また和解である(参照ヨハ4:23‐24,コロ1:20‐22,ヘブ9:11‐14等)
Bこの「交わり」の根拠は,人間のわざによるものではなく,「神の選び」に基づく,神の一方的恩恵によるものである
C神の民=教会の生の現実は,「神と共に,神の前に,神との交わりの内に」である.旧約におけるイスラエルの「聖」とは,本来的に,礼拝において表象される「神との交わり」の資格である