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レビ記  No. V 霊的競争心と失敗

 今週はどうしても説明を必要とするところです。無味乾燥な六法全書のような文書の中に突然、ものすごく人間くさい競争心と弱さの失敗が出てくるのです。一面、ほっとするところでもあります。

10章 長男と次男の死

10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。 10:2 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。 10:3 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。
 一体、何が起こったのでしょうか。アロンの長男と次男のナダブとアビフは父の大祭司としての威厳に満ちた姿に、すっかり魅了されてしまいました。そして、自分こそ、その跡継ぎとなろうとあせったのです。誰が大祭司になるかは神御自身が決めることですが、彼らはそれを待てませんでした。彼らは自分勝手に香を炊く火を取って神の前に近づいたので、神は彼らを打たれ二人は死にました。目の前で起こった二人の息子の死。アロンだけでなくイスラエル中が凍りついたことでしょう。これは今でも起こることです。神の働きをすることはこのような厳粛なものです。軽々しく競争心ですべきことではありません。主の弟子でさえ同じ失敗をしています。 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。ルカ9:46  これに対する主の答えは次のようなものでした。
9:47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、 9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
「すべての中で、一番小さい者が一番偉い」のです。このことはキリストに仕えるものが、まず第一に心得なければならないことで。教会成長論などという論議は弟子たちの言葉そのものです。結局、どれだけ大きな教会を作るかという競争心に過ぎないことがありえます。本当に注意しなければなりません。
10:4 モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。「進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」 10:5 彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。 10:6 次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。しかし、あなたがたの身内の者、すなわちイスラエルの全家族が、主によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。 10:7 またあなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には主のそそぎの油があるからだ。」それで、彼らはモーセのことばどおりにした。
 モーセはアロンの親族の若者に、彼ら二人の死体の処理を命じます。そして悲しみを表してはならないとめいじます。何と厳しい言葉でしょうか。神の聖なることを取り扱うのはこのようなことなのだと今日どれだけの人が知っているでしょうか。
モーセはアロンの二人の息子の死を「イスラエルの全家族が、主によって焼かれた」と言っています。単なる二人の聖職者の死ではないのです。驚くべき表現ではありませんか。聖職者も信徒もこのことをもっと知らなければなりません。日本の場合特にそうです。韓国ではこの点がかなり良く守られています。しかし、何事も行きすぎもありますね。難しいものです。
 この後、アロンとその子らに対する戒めがあります。酒を飲んではいけない。捧げものの食べ方、などなど、細かい戒めがありました。その結果、おかしなことが起こります。
10:16 モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。 10:17 「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。 10:18 その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。」
 アロンとその子らは、あまりにも一度の多くのことを教えられてしまったために、何が何だか分からなくなってしまったのです。彼らは規定どおりに罪のためのいけにえを取り扱うことが出来ず、聖所の中で食べなければならないのに、焼いてしまったのです。モーセは怒りました。
10:19 そこで、アロンはモーセに告げた。「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげました。それでこういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。」 10:20 モーセはこれを聞き、それでよいとした。 モーセの怒りに対して、アロンは哀れに弁明します。「判らなくなってしまったのです。ああ、どうしたら。良かったのでしょう。」
 モーセはそれを聞いて、仕方が無いか、と許しました。私はこの箇所がとても好きです。人間ですもの、理解できないことも、失敗もありますよ。あまりにも一度に多くのことを命じられ、その上、愛する子供たちが神に打たれ死んだのです。神は、アロンが混乱し、十分な対処ができなかったとしても、そこまで厳格に裁くことはなさいませんでした。ナダブとアビフのばあいと違って、悪意や欲望の結果ではないのです。ただのミスです。そんなことまで裁かれる神ではないのです。