ホームページ・メッセージ100117        小 石  泉

聖霊の賜物と実

最近、自分のメッセージを録音してみて、つくづく私は話が下手だなあと思いました。話すより、書く方がはるかに楽です。書く場合はいくらでも訂正が出来ますが、話すときは後から気がついても後の祭りと言うことがありますから。あのパウロ先生でさえ説教を酷評されて居ることがあるので、少しは慰めですが。
彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」Uコリント10:10
また、パウロ先生の話を聞いているうちに死んだ!人さえ居るのです!
ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。使徒20:9〜10
パウロ先生は生き返らせることが出来ましたが、私はそんな賜物はありそうにないので心配になります。そう、賜物について考えさせられます。
さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。Tコリント12:4〜11
この箇所から、賜物は特殊な人にだけ与えられ、持っていない人もあるのだと考えられがちですが、そうではありません。なぜなら、この中には“信仰の賜物”があるからです。信仰が無い人はクリスチャンとは言えませんからこの箇所自体が無意味になります。
ここにある賜物は全てのクリスチャンに与えられているものです。クリスチャンなら皆これらの賜物を持っているのです。実際、私たちでもこれらの賜物を用いることが出来る場合があります。ただ、特に豊かにこれらの賜物を持っている人が居るのです。
特に信仰の強い人、癒しや奇跡を行うことが出来る人、預言や異言に優れた人が居るのです。自分にはどんな賜物が与えられているのか知ることは大切なことです。私は癒しや奇跡の賜物は余り多く与えられていないと感じます。もちろん普通のクリスチャンのレベルではあるのでしょうが。
 最近感じるのは、ペンテコスト派、カリスマ運動と言った聖霊の賜物を重視する流れの混沌とした状況です。癒しや奇跡が強調され、まるでショーのような催しがありますが、その割には実際的な癒しや奇跡が見られません。もっとも癒しや奇跡は本当に必要な場面で、愛と信仰に満ちた導きによって成されるもので、人前で仰々しく見せ物にしたり、それを売り物にして人集めや金集めをするものではありません。
 また、その最も中心だった“異言”にも混乱が見られます。本来“異言”は言語ですから、単純な音の羅列や同じ言葉の繰り返しではないはずです。異言には“解き明かし”があるのですから、ボキャブラリーがなければなりません。ただし、私は初歩的な異言があると思います。幼児が上手く話せないように、生まれたばかりの異言もあるのだと思います。しかし、やはりもっと上達?すべきだと思うのです。私自身も中々豊富なボキャブラリーがないのですが・・・。そして、“解き明かし”の賜物が余りにも少ないと思います。
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。Tコリント14:1〜5
 この場合の“預言”と言うのは、異言と同様に聖霊によって語る言葉で、人間の知性で語る言葉ではないと思われます。ペンテコスト、カリスマ派に長く居ますが、正直に言ってこの“預言”をあまり聞いたことがありません。それらしいことは聞いたことがありますが、それによって特別な感動を覚えたことはほとんどありませんでした。20年前ぐらい前はもっと熱心に求めていたようですがいつの間にか下火になりました。残念なことです。もっとも聖書には私たちに必要な御言葉が十分にあるので、逸脱した預言が語られることは好ましいことではありません。
ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。6〜11
 この忠告を厳粛に受け止める必要があります。特に賜物を重視するなら。
あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。
あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。14:12〜19
この最後の言葉から、異言は価値がないと言う人々が居ますが、それは違います。パウロ先生は「あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝している」と言っています。異言はもっと語られるべきですが、他の賜物と同様に多く与えられる人と、そうでない人が居ることは確かです。
そして、賜物だけでなく“聖霊の実”と言われるものがあります。むしろこちらの方が大切ではないかとさえ思います。もちろん比較すべきものではないでしょうが。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。ガラテヤ5:22〜:23
賜物に優れていなくても、この“実”に優れた人を沢山見かけます。面白いことに賜物と、この実が反比例するように感じるのですが・・・・。
自分にどんな賜物が与えられているのか、また自分には御霊の実が実っているのか考え、求めて行くことは大切なことです。