2008年3月、土浦市の荒川沖駅で9人の人を殺傷した金川真大の死刑が確定しました。彼はその事件の前に1人、計2人の人を殺し、7人を傷つけましたがその理由は「自殺するのはいやだから死刑になりたい」と言うことだったそうです。余りにも身勝手な理屈。不条理な行動。多くの人が憤りを表していますが、私はこれを聞いて、命というものへの二つの感慨を覚えました。一つは何の意味も無く殺された人々の無念さと、もう一つは死んだら何もかも終わりだと言う無知です。
人は死んだら無くなってしまうのでしょうか。無神論、唯物主義ではそうなります。彼が言うように「人間を殺すのも蚊を殺すのも変わらない」と、そういう風に教えられたのでしょう。
しかし、聖書は人には二つの命があると言っています。
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイ10:28
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、ヘブル9:27
ここに、体の命と魂の命があると書かれています。殺人や自殺で若い人々が死んでいくとき、言いようのない空しさ、悲しみを感じます。彼らの生涯は何だったのか。途中で断ち切られてしまった人生の不条理の解決をどこに求めたらいいのか。
しかし、聖書はもう一つの人生があることを教えています。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間王となる。黙示録20:4〜6
神が御自身の権威と権勢を持って世界に介入されるとき、サタンに服従せず、そのしるしを受けることを拒んで殺された人々は、もう一度生き返って千年間世界で王になるという不思議な予言です。これはいわゆる「最後の審判」の結果ではないことに注意してください。そして、特に覚えていただきたいのは、すべての人は死んで無くなってしまうわけではないということです。聖書は明らかに人間の魂は不滅であると言っています。問題はその後の人生をどこで過ごすかです。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」21:8
不信仰で積極的に悪を行った者は、第二の死という運命に定められます。私はサタンとその協力者のことを一般のクリスチャンより少し多く知っています。そして唖然としました。彼らは罪を犯すことと悪を行うことを喜びとするのです。チャールズ・マンソン、アルバート・パイクと言う名を知っていますか?これらの人々はほんの見本ですが、その人生を少しでも知ったらあきれ果てるでしょう。サタンに喜んで協力する人々が、今も世界に無数にいます。彼らが普通の人々と同じ永遠の生涯を送るなどと言うことが絶対にあってはならないと思います。
そうではなく、普通に生きて、それほど罪や悪を実行しないでいた人が死んで、彼らと同じ境遇を与えられるなどと言うことはありえないと、私は考えます。もちろんキリスト教の言う救いではありませんが。
二十年ほど前に、私はある年配の方から電話を受けました。「キリスト教はクリスチャンでない人は全て地獄に行くと教えるのですか?」私は答えました「神様はあなたが納得できないようなことはなさいませんよ」「分かりました」。電話は切れました。
全能で愛に満ちた神が、最後の審判をしたとき、「私に与えられたあなたの裁きは不当です」と言う人は居ないでしょう。むしろ「私へのあなたの裁きは、あなたの愛と正義にふさわしいものです」と言うでしょう。
生まれたばかりで死んだ赤ちゃん、親からの虐待で死んだ幼児などがみんな火の池に投げ込まれるなど言うことがあるはずがありません。すべての人が納得のいく裁きが行われるはずです。
余談ですが、赤ちゃんと言うものは愛によって成長するものなのですね。孫を見ているとそのことが本当に分かります。彼らは愛されるために生まれてきたのだと思います。愛は心の食物ですね。
さて、これらとは別に、キリストの血による罪の贖いを受けた人々には全く別の生涯が用意されています。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録21:1〜8
これは善を行ったとか、正しく生きたとかに関係ありません。キリストの花嫁とは正真のクリスチャンのことです。“正真の”とは自分の罪を悔い、キリストから与えられる救いを受けたという意味です。これが信仰です。たったそれだけ? そうですよ、信仰とはそんなに簡単なものです。アブラハムのことを思いだしてください。彼はどうして“義”と認められましたか? ただ、90歳にもなって子供が与えられると信じただけです。信仰って、拍子抜けするほど簡単なことなのです。実はそれだから多くの人が信じられないのです。もっと難しいことを要求されると思っているからです。
人間には二つの命があります。一つはこの世での肉体の命。もう一つは永遠の国での魂の命。こちらの方がはるかに、はるかに長いのです。あなたはその準備が出来ていますか?