空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。マタイ6:26〜33(口語訳)
私たちは病の癒しや必要のためや問題の解決の為に祈ります。それは正しいことです。主は「求めなさい、そうすれば与えられます」と言っておられますし、ヤコブ書5:14には
「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」とあって、特に病の癒しのためには多くの祈りが捧げられることは大切なことです。
しかし、先日祈っていたとき、上の箇所を示されて、考えさせられました。着ること、食べること、そして、ここにはありませんが、病の癒しや問題の解決に関しても、同じことではないだろうかと思いました。「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」そして、「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と主は言われたのです。
では、「神の国と神の義を求めるとはどういうことなのだろう?」と改めて考えさせられたのです。イエス様は次のように言っておられます。
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。マタイ12:28
神の国とは天国のことでしょうか。「神の国」と言う言葉は新約聖書の中で67〜69回出てきます。訳によってちょっと違いがあります。それらを読んでみると、天のことでもあるし地上のことでもあります。一番適切な言葉は「福音」でしょうか。
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」マルコ4:26〜32
もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。マルコ9:47
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」ルカ9:60
『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3:3
神の国はことばにはなく、力にあるのです。Tコリント4:20
これらの言葉から、神の国とはキリストの福音の語られるところ、その結果救いを受けた人々、そして天にある神の国、と言うことができるでしょうか。しかし、もっと判りやすく言うと、神の国とは「主イエスの居られるところ」と言うことができるでしょう。
また、「神の義」とは何でしょうか。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。Uコリント5:21
私たちは主イエスの血によって贖われます。小羊なるキリストは私たちの義です。神の義とは言うまでもなく、主イエスです。
「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われたとき、主は間接的に「私を求めなさい」と言って居られるのではないでしょうか。私たちは、癒しを求め、問題の解決を願い、人々をとりなすなど多くの祈りをします。しかし、そこに主を求めているでしょうか。「すべては、添えて与えられ」るのです。いつの間にか、問題のために祈ると言うことが目的となっては居ませんか? そこに主を求め、主に感謝し、主をほめたたえ、主とともに居ると言う一番大切なことを忘れていませんか? 添えて与えられるものが、最大の関心となっていませんか?
刺身の「つま」と言うと、あの大根を細く切ったものです。「つま」とは、添えるものと言う意味です。昔の人は自分に身近な者を卑下して、奥さんを「妻」と呼びました。これも同じ意味です。失礼ですね。
もし、私たちが「神の国と神の義」すなわち「主イエスの居られる所と、主イエスご自身」を求めることを忘れて「添え物」を求めて祈るなら、それはお刺身の大根だけを求めていることになります。
祈るとき、まず、主イエスを求めてください。あなたを愛し十字架にまで掛かられた方は、それらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じです。そうすれば、すべては「添えて与えられる」のです。
*19世紀後半にアメリカにA.B.シンプソンという牧師がいました。彼は自分自身の病からの癒しの経験から、新生、神癒、聖化、再臨という四重の福音を強調する様になりました。ここからアライアンス教団が出来ました。
ところで、晩年A.B.シンプソン師は次のような賛美歌を作っています。
かつてはわれ良きものを 求めて主を忘れたり
賜物より癒しより 与え主ぞわれにあり
我が全ての全てなる 主をばあがめん とこしなえに 聖歌598
シンプソン師は20世紀初頭にペンテコスト運動が始まる前に、聖霊体験をしたらしく、いわばペンテコスト運動の先駆けとなった人です。この人の賛美歌はこのほかにも聖歌の566,588,592,597,602,618などがありますが、何れも深い主との交わりを連想させる美しい賛美です。
この他、最近の賛美で次の歌も美しいものですね。
Gghv
主イエスを求めることこそ
全てに勝る我が喜び
絶えずイエスを求めて行こう
すべてに勝る我が喜び (愛して、仕えて)